2021年4月7日水曜日

感じとる

 何とか大学卒業のメドが立ち、

遅まきの就職活動に向けてグズグズと動き出してた21のころ、

どうしても音楽を続けたかった私は父に相談した。

就職せずに、フリーターをしながら2年間音楽に打ち込みたいと。

 

今思えば、就職をしても十分に音楽はできるし、

むしろその方が見えてくる真理、成長もあると思う。

だがそのころはそうは考えられず、

「音楽に生きる」と一途に考え

サラリーマンと両立できるようなものではないと思っていた。

 

そんな私に父は言いました。

「お前が生活を賭けたいというロックとは何だ。まずはそれを教えてくれ」

 

論理派の父らしい答えだと思う。

当時は話題がすり替えられる感じがしてむかついたものだが、

いまでは父の言いたいこともわかる気がする。

賭けようとするものの本質が捉えられていなければうまく行かない、

そんなことを伝えたかったのだろう。

私はその質問に答えることはできなかった。

 

この時の質問は今でも思いだす。

そして明確な答えは今もない。

 

 

形而上的な言葉、

例えば「幸せ」「生きる」「死」「道徳」「愛」などは

明確な説明は不可能だ。

 

「幸せ」とは何かと問えば

健康、家族、愛、信仰、お金などなど

人によって答えが違い、そのどれもが正解であり、

他人からすれば不正解でもあったりする。

「ロック」も同じだと思う。

明確に横比較、定義できる言葉は無い。

 

それでもあえて答えるなら「体験するしかない」ということになるかと思う。

 

すべての形而上的な言葉はこれに尽きると思う。

あくまでも感じることでその言葉の意味を知る(感じる)

そして自分なりの概念を持つことになる。

それは言葉にできないとしても、本人には確実につかみ取れている。

 

言葉は不思議だ。

それぞれの心の中にあり、別の尺度に置き換えたり、

指し示すことが不可能なそういった言葉を

世界共通の言葉として運用しているのだ。

 

私がロックというとき、他人はその人なりのロックを想定し、

その想定したもののことを私が語っているのだと認識する。

それが同一なのか乖離しているのかはわからない。

だが会話は続き、その中でお互いのロック像を探る。

その末に会話は成立するが、そんな不安定な言葉を

共通言語として、普通に世界中で使う。

 

 

ウィトゲンシュタインは「論考」を

「語りえぬことについては、沈黙しなければならない」として〆ているが、

こうも言えるように思う。

「語りえぬことについては、感じ取らねばならない」

 

父はすでに故人となり、会話することはできないが、

いまなら父の質問に以上のように答えたかもしれない。

でも、きっと納得はしなかっただろうな。