2022年5月27日金曜日

血で書かれたもの

 

面白い動画をみました。

 

デニスチェンバースがTOOL”SCHISM”を一聴して、

それを叩いてみるという動画です。




 

この「達人が未聴曲に一聴で挑戦」というのは

シリーズになっていて、過去に別の動画も見ましたが、

今回は課題曲が5/8+7/8という変拍子の難曲ということもあり、

すごく興味深く見させていただきました。

破綻することなく叩ききるリズム感覚にうならされます。

 

また、見ていて不思議だったのが、

ヘッドフォンで元曲を聴くときのデニスのリズムの取り方。

軽く顎を上下させながらリズムを取っているのですが、

リズムの何を聴いて乗っているのかわからない。

 

裏で乗っているように見えるが、その限りでもなさそう。

彼の顎の動きに合わせてリズムを取ってみましたが、全然しっくりこない。

うーむ。これが以前の記事で書いた

国民性、民族性による違いなのかもしれない。

 

 

最近、伊福部昭とバルトークの本を立て続けに読んだこともあり、

音楽への民族性の影響みたいなものについて意識が深まっている。

 

お二人とも音楽に民族性、地域性が影響を与えることを書いている。

民族性によって音楽の好みにも違いが出る。

自分の血が求めるものは「好み」としても現れる。

 

ニーチェはツァラトゥストラの中で

「すべての書かれたものの中で、

私が愛するのは血で書かれたものだけだ」と書いています。


この「血で書く」には

自分の中に流れる歴史をさらけ出すという意味もあるかもしれない。

 

常々、いい曲を作りたいと思ってもがいていますが、

もっと単純に自分の中からあふれてくるものを大事にできればいいんだろうな。

それこそがきっと自分が好きなものであり、聴きたいもの、

ひいては「いい曲」なのだろう。


その「あふれてくるもの」を捕えるというのが難しいのですが。

 

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さて、告知させていただきます。

 


724日(日)

国分寺モルガーナ

 

MORGANA 40th ANNILERSARY

“THE SUMMONIG”

 

出演

ATACAGA

HYLKO

曇ヶ原

斉藤新

地底湖

 

開場: 1730

開演: 1800

 

前売り: 2500円+1D

当日:  3000円+1D

 

 真夏の国分寺。

モルガーナ、40周年なんですね。

すごい。





 

 

2022年5月18日水曜日

3発目の

 

以前にも何度かこのブログで引用させていただいてますが、

森有正さんという哲学者のお考えが好きでよく読む。

 

氏の考え方の中で特徴的なものといいますと、

「経験」に関するものかと思います。

 

「経験」とは「体験」と違い、

日々生きていく中で個々の中に無意識に樹立されていくものであり、

それが個々の考え方、言葉、生き方を作っていく。

 

我々は「経験」というと何かを「体験」することと考えている。

例えば食べたことのないものを食べるとか、

行ったことのないところに行くとか。

「初経験」とかいうが、それらの大半は「初体験」である。


経験とはそういうものではなく、

木は日々見る中では全く成長していないように見えても、

数年たってみると巨木になっているように、

変化はないように見えても変貌していくこと、

これこそが経験であるという考えだ。

 

言葉の意味も「経験」によって個々の中で変貌していく。

例えば、「愛」という言葉の意味は何だろう。

人によって、家族、恋人、ペット、などなど

いろんな形で「愛」とは何かを考えるだろう。

でも、その中に共通する何かは明確に説明できない。


言葉にして説明することができないとしても

それは「経験」によって積み上がっていき、

それぞれに中に「愛」という言葉の意味が樹立していく。


そしてその言葉を他者と共有する中で、

それはさらなる意味を持ち、言葉として強化されていくのだ。

(この辺、私なりの森有正解釈も含んでしまっています・・・)

 

「思想は、思想から出発しては全然ダメなのです。

問題はその素材である言葉の扱い方を学ぶだけなのです。

その素材が組織された姿がある一つの思想を定義するのを

辛抱強く待つほかないのです。」 

 

きっと年齢を重ねることの意味もここにあるのではなかろうか。

子供のころ、年寄りの話をよく聞くようにと言われたものですが、

それは年寄りの持つ知識を吸収せよ、という意味ばかりではなく、

どのように「思想」「生き方」が構築されていくのかを感じ取れ、

という目的もあったのではなかろうか。

 

生活の中で「経験」は積まれていき、

思想、生き方、ひいては「自分」はまとまっていく。

だが、その生活次第でその出来上がりには

違いが出てくるのではなかろうか。

その為の指針となるものが

道徳であり、文化であり、国家であるのかもしれない。

 

そしてその捉え方も個々の「経験」によって変わっていく。

文化、道徳、国家といったものも同様に

時間の中で巨木として構築され、更新されていく

なにもかもが互いの「経験」が絡み合う中で変貌していくのだ。

 

 

震災以降、「日本」について考えることが多くなった。

森さんの文章を読んでいてもまた考える。

 

「木々は光を浴びて」という文章を、

森さんは、日本に住むフランス人女性との会話の引用で終えています。

 

会話の中で東京での生活についての話になり、

その中で何がきっかけか覚えていないものの、

彼女がふと「3発目の原爆はまた日本に落ちると思います」という。

 

彼女には差別的な考えも偏見もない。

何のてらいもない、この突発的な発言に森さんは言葉を失う。

潜在的に彼女が感じていた、「経験」への日本の軽視が

こういった発言につながっているのではなかろうか。

 

「木々は光を浴びて」は1970年の文章です。

それから50年。

日本はどんな巨木になれたのだろうか。




 

2022年5月16日月曜日

THE HEAD HUNTERS  "SURVIVAL of the FITTEST"

 

マイルスデイビスは自叙伝の中で、

JBやスライの音楽を「リズムの塊」と表現をしている。

塊という位だから、聴いているだけで体が動いてしまうのかと思う。

JBもスライも好きですが、私はそこまでのものは感じ取れない。

 

本当のブルース、ファンクは

黒人にしかわからないといった内容も書いていますので、

ファンクの本当の魅力は日本人にはわからない、

もしくは感じ取りにくいのかもしれない。

 

だからというわけでもありませんが、

実は私はファンクが苦手。

というか良さがあまりわからないのだ。

いわゆるミクスチャーロックは好きですが、

モロなファンクはたくさん聴けない。

 

「ファンクがよくわからない」って言うのは、

ベーシストとしてちょっと勇気がいりますが、

ひょっとすると、同じように思っていても、

なかなかカミングアウトできない日本人って結構いるんじゃないでしょうか。

 

 

さて、前置きが長くなりましたが、

今回は愛聴盤紹介 第6回目。

THE HEAD HUNTERS “SURVIVAL of the FITTEST”です。

 


HEAD HUNTERSといってもハービーハンコック名義のものでも、

ましてやシュミーアのジャーマンスラッシュでもありません。

 

ハービーハンコック名義で作成されたアルバム“HEAD HUNTERS”は

超有名な名盤で、私も大好きです。

その後もハービー抜きでバンドは継続しており、

このアルバムはハービー抜きのTHE HEAD HUNTERSとして1作品目となります。

 

先述の通り、ハービーはいませんが、

根幹となるポールジャクソン(ベース)、

ベニーモウピン(主に管楽器)、

ビルサマーズ(各種パーカス)は健在。

さらにギターのブラックバードマクナイト、ドラムのマイククラークの5人組。


ハービー時代はギタリスト無しで、

そこをハービーが鍵盤でカバーする感じでしたが、

ギターが入り、ファンクとしてのわかりやすさが増しています。

 

このアルバム、「スペースファンク」なんて呼ばれることもあるそうです。

スペースとか言われると、ついHAWKWIND的な

「宇宙音」が入っているのかと思いがちですが、

そういうわけでもありません。

なにがスペースなのかよくわからないのですが、

何となく永続しそうな曲が多いので、

その辺を「スペース」と形容しているのかもしれません。

曲によってはFAUSTのようなリズムの永続を感じます。

 

基本的に曲はFUNKなんですが、

なんというか都会臭さというかアメリカっぽさが薄いのです。

より広大なものを感じる。

不思議な異国感、土着感が漂う。



変なたとえをしますが、濃い目のFUNKって

着飾ったでかい黒人さんに囲まれて、

真っ白い歯を見せてニコニコしながら

「たのしもーぜー」と肩を抱かれているような気になります。

そこに気おくれしちゃいます。

想像しただけで作り笑いに必死になります。

 

それに比べ、HEAD HUNTERSは、

私には残念ながら欠けている要素をもつミュージシャンたちが

アフリカ(かどこか)の森の中で祭りをやっているのを

傍らで見ているような感じがするんです。

知らない儀式を少し敬虔な目(耳)で見ているのが快感なのです。

このアルバムにもその感じが充満しています。

 

 

冒頭に書いたマイルスの言葉ですが、

最初に読んだとき、ちょっとショック受けました。

私のファンク苦手が証明されたみたいで。

 

でも、その後に考えが変わりました。

逆に彼らには日本人の持つワビサビの感覚は

わからない(つかみにくい)んじゃないかな。

6070年代、ジャンルを問わず、海外のたくさんのミュージシャンが

東洋の思想に憧れ、インド音楽、日本の禅を

勉強したなんてことがありましたが、

彼らからすると「日本人の感覚」は

それはそれで憧れるものなんでしょう。

 

要は文化、歴史の違いであって、

残念に思ったり、誇ったりするような話ではない。

 

ただ、純日本人の私にも響くこのアルバムのファンクは

きっとすごいものなんじゃないかなと、

わからないながらに思うのです。

 

 

 

 

 

 

2022年5月8日日曜日

レコード購入

 

昨日の昼、以前に注文していたレコードが届きました。


 

高柳昌行さんの「ECLIPSE」と「CALL IN QUESTIONLIVE INDEPENDENCE」。

 

そんなわけで昨日の午後から今日にかけ、

高柳昌行三昧で過ごしています。

 

私は氏の音楽を語れるほどの経験も耳も持っていませんし、

言葉に落とし込めるような音楽でもありませんので、

内容についてどうこう書くことはできません。

ただただすごいです。音も雰囲気も姿勢も。

 

高柳昌行さんの音楽には大学生のころに触れましたが、

全くピンと来ませんでした。

数年前から「即興」についていろいろと考えるようになり、

改めて聴きなおして以降、大ファンになり、追いかけてます。

今回、入手困難音源のLP化の話を知り、

急いで予約した次第。

 


中ジャケの写真。

現在住んでいる吾野の山向こう、生越市の山奥で「山猫軒」という

カフェギャラリーを経営なさっている写真家 南達雄さんの写真です。

私は写真のことはよくわかりませんが、

高柳さんの「人」がにじみ出ているようで、すごく好きです。

 

山猫軒、南さんとの出会いは、

実は私の移住決心の一つのきっかけだったりします。

その辺はまた今度書かせていただきます。

 

 先日の記事で「今の音楽」探求について書いた直後に

70年代音源の記事となっちゃいました。

いいんです。

氏の音楽は時代を超越していますので。



 

 

2022年5月7日土曜日

GW

 
GWも終盤。

 

今年のGWは5月1日にライブがあったものの、

そのほかは大きなイベントがあるでもなく、

練習したり、本を読んだり、座禅したり。

いつも通りの休日を過ごしております。

 

いつも通りとちょっとだけ違うこととして、

何度か近所の森の中を散歩したりしています。

 

人のいない森の中を歩く。

まだ虫や動物も少ない季節ですので、歩きやすい。



 

 

ショーペンハウアーは、万物は意思を持ち、

我々はそれを五感で感じ取り、「世界」としてとらえているという。

 

「意思」というと擬人化が強くて

意味合いが伝わりにくいように思う。

私は「エネルギー」とか「生きる力」みたいなものとして考えている。

 

無機物も意思を持つ。

例えば重力はひきつけんとする意思であり、

結晶化は一体にならんとする意思。

植物、動物も当然意思を持ち、

人間に至るとその意思の幅広さ、強さは最大になる。

 

人間はその意思の強さゆえに苦しんでいる存在だという。

満たされない思いに常に苦しみ、

束の間、それが満たされると今度は退屈に苦しむ。

苦しみ続けながら生きているというのだ。

ショーペンハウアーの考え方が厭世主義と言われるゆえんだ。

ちょっと悲観的に過ぎるようにも思うが、

すごく興味深い思想であり、否定しきれない思いもある。

 

そんな人間は自然の中に置かれると、

全周囲から感じる自然の意思に圧倒され、

自身の意思を忘れるという。

いうならば生きる苦しみを忘れ、自然と一体になる。

 

我々は自然の中に赴くことを「遊び」「レジャー」とするが、

本来は「楽しむ」ものではなくて

こうして「混ざらせてもらう」ものであり、

さらには「跪く」対象なのかと思う。

 

なんだかアニミズム的、宗教的な話になって

抵抗のある人もいるかもしれませんが、

私はそういうものだと思っています。

 

森の中をうろうろしながらそんなことを考えた。

 


写真は森の入り口に立ってる看板。

なんかかわいい。

ご注意ありがとう、気を付けます。



2022年5月2日月曜日

CITYBOY

 

昨日は深谷CITYBOYでライブ。

 

初の深谷。

会場は想像通りの面白いところで、

手作り感のある店内ですが、音響はしっかりしていて、機材も新しめ。

客席奥のテーブルにフリーフードとして

焼きそば、お好み焼きが随時置かれる。

何ともアットホームな雰囲気でのんびり過ごせました。

 

ライブは久々でしたが、

やっぱり人前で演奏するのは楽しいですね。

一人で演奏しているのも好きですが、

不特定多数の方に自分の世界を共有していただくというのは

やはり特別であり、有意義なことだなと再認識しました。

ご覧いただいた皆様、共演者の皆さま、ありがとうございました。

 

 

合間にDAYBREAKのコウスケ君が転換BGMをかけていて、

聴いたことのないバンドだったりするので、

何をかけているのか教えてもらう。

いかに自分が最近の音楽を知らないかということを思い知るとともに、

彼の貪欲さに驚く。

YOUTUBEなどで新しいバンドを知ると音源を探し、

輸入購入するらしい。

 

 

私はすっかり最近の音楽、バンドを聴かなくなってしまいました。

最近の音楽を聴いても、ついつい自分が過去に聴いてきた何かに寄せて聴いてしまい、

「ああ、○○みたいな感じか。」と片付けてしまいがちだ。

 

だが、確かに○○っぽいとしても、そこに至る道は○○とは違うわけで、

当然全く同じものであるわけがない。

彼はそんな化学変化を楽しんでいるらしい。

 

例えば正統的なヘビーメタルバンドだとしても、

70~80年代のバンドと違って、今のバンドは90年代以降の

デス、ドゥーム、ゴシックなんかも知ったうえで

正統メタルに至っているわけで、その経験値は音楽ににじんでいる。

聴いているとそんな機微が見えてくる。

なるほど、音楽にはいろんな聴き方もあるということを再認識した。

 

 

私の青春時代はオルタナ、グランジブームでした。

当時、上の世代のミュージシャンが雑誌のインタビューで、

「オルタナブームというが、バニラファッジは20年前にとっくにオルタナをやっていた」

みたいなことを言っていたのを読んだことがある。

言いたいことはわからないでもないが、ちょっと嫌な気持ちになった。

(バニラファッジは好きですが。)

 

今の私の頭はこの人と同じようになってしまっているかもしれない。

現行の音楽を聴いても、昔の音楽から曳いて聴く癖がついてきている。

 

反省です。

やっぱり古典好きである前に音楽好きでいるべきですね。