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2022年5月18日水曜日

3発目の

 

以前にも何度かこのブログで引用させていただいてますが、

森有正さんという哲学者のお考えが好きでよく読む。

 

氏の考え方の中で特徴的なものといいますと、

「経験」に関するものかと思います。

 

「経験」とは「体験」と違い、

日々生きていく中で個々の中に無意識に樹立されていくものであり、

それが個々の考え方、言葉、生き方を作っていく。

 

我々は「経験」というと何かを「体験」することと考えている。

例えば食べたことのないものを食べるとか、

行ったことのないところに行くとか。

「初経験」とかいうが、それらの大半は「初体験」である。


経験とはそういうものではなく、

木は日々見る中では全く成長していないように見えても、

数年たってみると巨木になっているように、

変化はないように見えても変貌していくこと、

これこそが経験であるという考えだ。

 

言葉の意味も「経験」によって個々の中で変貌していく。

例えば、「愛」という言葉の意味は何だろう。

人によって、家族、恋人、ペット、などなど

いろんな形で「愛」とは何かを考えるだろう。

でも、その中に共通する何かは明確に説明できない。


言葉にして説明することができないとしても

それは「経験」によって積み上がっていき、

それぞれに中に「愛」という言葉の意味が樹立していく。


そしてその言葉を他者と共有する中で、

それはさらなる意味を持ち、言葉として強化されていくのだ。

(この辺、私なりの森有正解釈も含んでしまっています・・・)

 

「思想は、思想から出発しては全然ダメなのです。

問題はその素材である言葉の扱い方を学ぶだけなのです。

その素材が組織された姿がある一つの思想を定義するのを

辛抱強く待つほかないのです。」 

 

きっと年齢を重ねることの意味もここにあるのではなかろうか。

子供のころ、年寄りの話をよく聞くようにと言われたものですが、

それは年寄りの持つ知識を吸収せよ、という意味ばかりではなく、

どのように「思想」「生き方」が構築されていくのかを感じ取れ、

という目的もあったのではなかろうか。

 

生活の中で「経験」は積まれていき、

思想、生き方、ひいては「自分」はまとまっていく。

だが、その生活次第でその出来上がりには

違いが出てくるのではなかろうか。

その為の指針となるものが

道徳であり、文化であり、国家であるのかもしれない。

 

そしてその捉え方も個々の「経験」によって変わっていく。

文化、道徳、国家といったものも同様に

時間の中で巨木として構築され、更新されていく。

なにもかもが互いの「経験」が絡み合う中で変貌していくのだ。

 

 

震災以降、「日本」について考えることが多くなった。

森さんの文章を読んでいてもまた考える。

 

「木々は光を浴びて」という文章を、

森さんは、日本に住むフランス人女性との会話の引用で終えています。

 

会話の中で東京での生活についての話になり、

その中で何がきっかけか覚えていないものの、

彼女がふと「3発目の原爆はまた日本に落ちると思います」という。

 

彼女には差別的な考えも偏見もない。

何のてらいもない、この突発的な発言に森さんは言葉を失う。

潜在的に彼女が感じていた、「経験」への日本の軽視が

こういった発言につながっているのではなかろうか。

 

「木々は光を浴びて」は1970年の文章です。

それから50年。

日本はどんな巨木になれたのだろうか。




 

2021年11月25日木曜日

人間の発揮することのできる最も大きな力は人間の中に起源を持たない

 

郊外に引っ越してきて2年が経った。

 

郊外といっても徒歩圏内に電車駅、コンビニもあるし、

観光地なので、土日は人も多い。


とはいえ、家の裏は川でその向こうには森、山が広がる。

引っ越す前に住んでいた都心に比べると

自然との接点がかなり多い環境だ。

 

そんな中、絵描きである妻の作品に変化を感じることがある。

昔から動物をモチーフにすることが多いのだが、

最近書く動物は「可愛すぎない」ように思う。

可愛くも不思議な作風であることは変わらないが、

なんというか、「可愛く書く」というディフォルメが少なくなっているように感じるのだ。

 

自分の音楽作品についても変化があるようで、

以前は映画的と言われることが多かったように思うが、

転居以降は風景、自然を感じると感想をいただくことが増えた。

 

先日、内田樹さんの「武道論」という本を読んでいて、

興味深い文章に出会った。

「人間の発揮することのできる最も大きな力は人間の中に起源を持たない」

 

過去にラベル、伊福部昭の音楽を例に、

環境による作曲への影響について書いたことがありますが、

この内田さんの言葉はそういうことも説明できるかもしれない。

 

外部の力、環境が人の発信、性格に影響を与える。

 

ただ、外部から受け取るものを自分なりの形に変換する力は個々のものだ。

その力を常に整え、磨く努力は続けていかなくてはいけないな。

 

それは受け取ったものへの敬意、感謝でもあると思います。



何事のおわしますかはしらねども

かたじけなさにに涙こぼるる


これは西行法師が伊勢神宮にて謡った歌です。

八百万の神との関係として、あるべき姿のように思います。

この「涙」が作品であれたら素晴らしい。

ちょっとロマンチックすぎるかな。



 

2021年5月28日金曜日

はてなの中で

 

昨年末に文庫化された、森達也さんの

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」という本が面白い。

文庫化時にいっき読みして、最近再読した。

 

生粋の文系と自称する著者が、

科学の各分野の最先端の学者にインタビューを行い、

人間が根源的に持ちつつ、回答の得ることのできない、

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」に対して

解を探っていくという内容だ。

 

ゴーギャンの作品名から取られたこのタイトルからすると、

哲学的な硬い本を想像してしまうが、そんなこともない。

軽すぎず、重すぎない文体が読みやすく、

また、文系といいながらも理系知識にも明るい著者は

変に学者さんに置いて行かれてしまうこともなく、

同時に読者も置き去りにしない。

絶妙な難しさ加減で進んでいく。

 

 

森達也さんというと、オウム問題や超常現象など、

ある種、「サブカル」とか「タブー」「オカルト」にくくられそうな分野に

変な先入観を持たずにノンフィクションでまとめていく作家さんと見ている。

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」以外にも1冊読んだことがある。

その名も「オカルト」。

超能力、霊能力などの特殊能力者や超常現象の起こる場所に赴き、

実際に体験しながら、その不思議を探っていく作品。

 

世間にあふれる超常現象は大半が

思い込み、トリック、インチキであるとしながらも、

残りの数パーセントは本当にそういった能力が

存在するとしないことには説明がつかない、として

各種の体験をまとめていく。

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」でも「オカルト」でも

世界にはまだまだ分からないことがたくさんあるということを思い知らされる。

 

我々はついつい、世界は1+1=2の積み重ねであり、

説明の出来ないものは無いかのように考えてしまうが、

そんなことは無く、世界は不思議にあふれているのだ。

というよりも世界の根っこは不思議で出来ていて、

その上の楼閣で人は生きている。

 

Bucket-Tで「天使のうた」という曲を作ったとき、

こんな歌詞を書いた。

「永遠に続くはてなの中で 何を信じ、何を祈る」

自分で書いた歌詞に共感してたら世話無いですが、

まさしく世界はそういうものなのだと思っている。

 

どんなに知識を積んでも、勉強を重ねても疑問符は並び続いていく。

それが世界であり、我々にできることは

その中で何かを信じて、そこに跪きながら生きていくことだけだ。

 

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」には

10人の最先端の科学者が出ているが

残念ながら私は大半の方を知らず、著書も数冊しか読んだことがない。

なので、この本を通してそれぞれの思想、研究を知りました。

 

たくさん興味深い話があるのですが、

脳科学者の藤井直敬さんの章での話でこんな話がありました。

 

我々とは何者か、との質問に対し、

藤井さんは世界の一部であると答える。

個は本来存在しないと。

おそらく大半の動物は個を意識せずに生きているという。

 

だが、人はメタ認識の能力により、

外界との相互作用の中で意識が芽生えていく。

言い換えると、外界によって自己が作られていく。

たかだか世界の一部でしかないものが、外界との関係、相互作用によって、

「我々」としての自我を作っていくのだ。

 

SFなんかで悪の親玉として出てきそうな、

培養液のようなものの中に脳だけが浮かんでいるだけみたいな存在、

それでは自己は芽生えないのではないかという。

外界との境界があいまいだからだ。

相互作用が生まれにくい。

 

 

体という「境界」が「環境」と相互作用しながら、

我々は自我を築いてゆく。

 

それは意識して行うことではなく、

ほぼ自動的になされてゆく。

例えば、病気、けが、老化などの身体(境界)変化、

政治情勢、経済状況、自然破壊などの環境変化、

さらには新ウィルスの流行なんかも環境変化といえるだろう。

すべてが個々の自我を作ってゆく。

 

それら変化は一見ネガティブに響くが

どのみち自我に作用するのだから

自己を作り上げていく要素としてポジティブに捉えたいものだ。

 

中国の紀元前300 年ころの思想家であり

道教の始祖の一人でもある荘子の考えに因循主義というのがある。

簡単に言うと自己を捨てて絶対的なものに委ねるというもので、

荘子が書いたとされる本にこんな逸話が残されている。

 

道家思想を持つ人物が謎の病気にかかり、

背中が折れ曲がり、異常な体形になってしまう。

その人物を見舞うと彼は全く落ち込んだ様子もなく、以下のようなことを言う、

「こんな体に変わってしまい、造物者のすることは本当に面白い。

 次はどんな変化が起きるのか楽しみでしょうがない。」

「この世に生まれたのは生まれた機縁を得ただけであり、

 死んでゆくのもその道理にしたがうだけだ。」

 

ちょっと話が大きくなりすぎましたが、

荘子の思想ほどではないにしても、

変化を楽しみながら生きていけるようにありたい。

体も環境も変わっていく。

不安や恐れはつきものだが、そこにこそ成長がある。

 

どうせ世界は不思議で包まれているのだ。

考えてもしょうがない。

GAUZEじゃないが、

「考えてもしょうがないことは東スポの占いで決める」くらいでいいのだろう。




2020年8月23日日曜日

修行物

子供のころ、ジャッキーチェンが大ブームとなり、
頻繁にテレビでもジャッキー映画が放送されていた。

たいていジャッキー映画を見た後は
何だか修行したくなり、翌朝早起きして、
公園で砂を入れた袋を引っ張ってみたり、木にキックしたりしたものだ。
友達に見つかって苦笑い、
翌日以降はやめてしまうのが常でしたが。

中でも好きだったのが
なんとか拳の類。例えば酔拳、蛇拳、笑拳とか。
それらの作品は修行シーンが一つの見せ場になっていて、
子供心をわしづかみにされるのだ。


子供心と言いましたが、いまでも修行シーンは大好き。
映画を見ていて、良質な(?)修行シーンに出合うと、
それだけで評価がぐっと上がってしまう。

さて、そんな修行物ですが、
映画だけでなく、小説、文学の世界にもあったりする。
今回はそんな修行物をいくつかご紹介させていただきます。
(以降、敬称略)


まずはこちら。
「宮本武蔵」 吉川英治

修行物の代表格かと思います。
私ももう何度も読んでいます。

武蔵が村の乱暴者から剣豪へ成長し、
巌流島の決戦にいたるまでが描かれています。
剣に賭ける武蔵の純真さは感動的ですらある。

極真空手の大山倍達を題材にした漫画「空手バカ一代」の中で、
若き大山が同書に出合い、空手一筋に生きることを決心したとして描かれています。
この漫画は、今ではフィクションであることが定説になっていますが、
それでも暗闇の中で背筋を伸ばして同書を読む大山倍達を描くコマには、
何か崇高な雰囲気が宿っている。

また、後述する柔道家木村政彦も試合が近づくと士気を高めるために、
同書を読んだと言われています。

これらエピソードからも修行物の金字塔と言えるように思います。


次はこちら。上述の木村政彦にまつわる話。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 増田俊也
  
昭和の巌流島決戦での力道山によるブック破りを軸に、
柔道家 木村政彦の生涯を描くノンフィクション作品。

15年無敗、「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」と言われる
最強の柔道家にして格闘家 木村政彦

戦前の修業時代がすさまじい。
3倍努力という言葉で知られる通り、
他人の3倍は修行を重ね、睡眠は3時間程度、
夢の中ですら柔道をやっていたという。

修行、強さにかける木村の気迫を見ていると、
自分も何かをしなくてはいけない気持ちになってくる。

戦中、戦後からは食べるために生きる木村が描かれ、
「修行物」からは少し離れてくるが、
それはそれですごく面白い。
戦後の興行史や格闘技史が
緻密な情報収集を元にすごく丁寧に描かれている。

戦争で人生の歯車が大きく崩れ、
上述の力道山戦で栄光を奪われる。
以降、苦しみぬいて生きる木村の姿は本当に切ない。
最後に奥さんと散歩中にかわす言葉に涙が止まらなくなる。

扇情的なタイトルで、少し下品な印象を持ってしまうが、
中身はすごく骨太です。

 次はこちら。
「日本の弓術」 オイゲンヘリゲル
戦前、ドイツの哲学者である著者が
日本に赴任した5年間に日本の「道」「術」に触れるべく、
弓術を修行する様子が描かれる。

「術」はスポーツとは異なり、論理的に説明できるようなものではない。
あくまでも稽古、鍛錬の末に体感、会得されていく。

例えば、弓を絞る際、
普通に考えると、背筋、腕力で絞り上げるものと考えてしまうが、
そうではなく、力は使わないとのこと。
実際に弓を引き絞った先生の腕を触れると筋肉は全然張っていないという。

また、暗闇で放った2射が1本目は的中央に、
          2本目は1本目を割く形で射抜かれる。                                   

自分が的と一つになったとき、自然と弦から指が離れ、
矢が的に刺さるのだという。
中島敦の「名人伝」にでも出てきそうな話だ。

そんな不可思議な術に対し、
西洋の哲学者ならでは、
なんとか論理的に解決、会得をしようと苦しむ著者。

だが、徐々に論理を離れ、神髄に近づいていく。
西洋的思考から東洋的思考へ。
いわゆるトレーニング的な修行というよりも、
思考の変更が修行であり、
そこに苦心するドイツ人著者と日本人師匠の心のふれあいも素晴らしい。

 次も「術」にまつわる本
「鉄山に訊け」 黒田鉄山 
「日本の弓術」での人間離れした術に、
これは過去の名人の話であり、
なんなら、すこしは脚色が入っているのかも、
なんていう思いも少しあったのですが、
ある時、YOUTUBEで黒田鉄山氏の演武を見て、
「術」は現代にも残っていることを知りました。
そこで、気になって買ってみたのがこの本。

柔術、剣術についての指南書のような雰囲気もあるため、
それらにまったく縁のない自分にはよくわからない部分も多いのですが、
人間業と思えないような術理が
型一筋に何年も打ち込んできた結果に得られてきたということ、
そこに何かがあるはずだと一途に進んできた信念に心を打たれます。

何かを会得するためには、
ある種の信仰のようなものが必要だと考えています。
そんな思いを改めて抱かされます。

完全に門外漢なのですが、
買ってみてよかったと思えた本です。

ただ、このカバーデザインは何とかならないものか・・・
もっと重厚な方が良いように思うのだが・・・

最後は小説です。
「抗夫」  夏目漱石 

抗夫とは鉱山作業員のことで、
暗い穴の中でひたすらに鉱石を掘り続ける仕事。
それは体力的にも、環境的にも苦しく、死と隣り合わせだ。

良家に育ちながら、
自棄の末、誘われるままに抗夫になることを決めた主人公の青年が、
鉱山への山越えの道、抗夫体験を経ながら、
半ば意地になって抗夫にならんとする話。

「獰猛」と表現される抗夫達の中で、
貧しい食事を食べ、南京虫に苦しめられて夜は布団で寝ることもままならない。
そんな世界の中でも、誇りと知性に輝く抗夫もいる。
それらを読んでいると、自分なりに今までに体験した苦労を思い、
その中で自分はどうあったかを反省させられる。

今まで上げてきた剣や柔術、弓術といった修行とは大きく違うが、
志はともかく、過去に味わったことの無い苦労の連続を重ねながら
少しづつ抗夫に近づいていく様には、
何か刺激されるものがあります。


以上、5冊を挙げさせていただきました。
他にも芸術での修行物、宗教での修行物などもあります。
その辺はまたの機会に紹介させていただきます。
また、冒頭にジャッキー映画を挙げましたが、
映画にもたくさんの修行物があったりします。
こちらもいずれ紹介させていただくかもしれません。

やっぱり修行物はいいです。
心が引き締まります。










2020年3月15日日曜日

読書随想


本が好きでよく読む。

同じく読書好きという方を紹介されて、話をする機会があるが、
「読書」という言葉はあまりにも多岐にわたってしまうので、
残念ながらあまり話が弾まなかったりする。

デルタブルース好きもゴアグラインド好きも音楽好きだが、
なかなかかみ合わないだろう。
それと同じだ。いや、違うか。

先日、読書家である某バンドのベースさんとお話したのですが、
氏がお好きなのはシュールリアルとのことで、
残念ながらまったくもって門外漢の私とはあまり話が弾まなかった。
(一応、その後ブルトンを読み直したが、やっぱりぴんと来ない・・・)
そんな私は哲学、古典文学、近代小説、漢詩などが好きだ。


近代(明治~昭和初期)の小説を読んでいると、
今の言葉の漢字もしくは当て字が出てきて興味深い。

例えば何かに合点がいったとき「どうりで」というが、
「道理で」と書かれていてなるほどと思わされる。

ほかにも
「歩行た」→「あるいた」
「濃やか」→「こまやか」
「人の間」→「ひとのよ」
などなど、並べてしまうとあまりインパクトはないが、
文中でこの漢字が出てくると、一瞬「?」となり、
読み方に気づいたときにハッとするとともに情緒すら感じる。

なかには
「可成り」→「かなり」
「成る可く」→「なるべく」
といった具合に、違う言葉でも漢字から追うと
近似の意味を持って使われていたのではないかと想像させる言葉もあったりする。

以前の記事で自然という言葉の語源に触れたが、
同様に自由という言葉も英語のFREEDOM、LIBERTYを訳すにあたり、
仏教語の「自由」を当てたのがはじまりだという。

もともとの「自由」は「自ずからを由とする」、
すべては自分に理由があるといった意味合いだ。
FREEDOMやLIBERTYには「解放」のニュアンスがあるが、
元々の自由にはそれは無い。
どちらかというと「責任」を感じさせる言葉だ。
翻訳とその流布とともに言葉が別の意味になったり、
別の意味が付与されていくのだ。


言葉は伝達、思考の手段であり、
誰もが言葉で感覚、心を翻訳しながら生きている。
頭の中には随時言葉があふれかえっている。
人から言葉を奪い去ったとき、どんな風にものを考えるのだろう。

想像もつかないくらい言葉というのは重要な道具だ。
でも、言葉の意味は確たるものではない。
時とともに揺れ動き、人によってもとらえ方は一律ではない。


そんなことを思いながら電車に乗っていて、
ふと「情報」という文字が目についた。
この熟語も「情を知らせる」というのが語源だったりするのかなとか思い、
無機質な言葉に情緒を感じる。

そこで、ちょっと語源を調べてみた。
すると、「敵情を報知する」という言葉が語源とのこと。

なんだよ、全然想像と違う。
まったく粋じゃない。





2020年2月29日土曜日

ペスト


コロナウィルスが猛威を振るい、
不安な日々が続いている。

感染の怖さもあるが、
つい一か月前まで、影も形もなかった話が、
急に危機として身近にあるという事実が怖い。

アウトブレイクなんて言葉が聞こえてくると
カミュの小説「ペスト」を思い出す。

ちょっと調べてみると、今回の騒動に合わせて、
「ペスト」が売れているらしい。
アルジェリアの平和な街を突然襲ったペストの恐怖と
それに抗うもの、あきらめるもの、街からの脱出を図るもの、
騒動の中に安息を見出すものなど・・
街の人々のペストへの対応から、
生きることの難しさ、悲しさ、すばらしさが描かれる。
私の大好きな小説のひとつだ。

よく言われることだが、カミュの作品には不条理を描いた作品が多い。
「シーシュポスの神話」では人生をシーシュポスへの神罰にたとえ、
「異邦人」では流れるままに生きた末に罰せられる人物が描かれる。

カミュはサルトルと並んで、実存主義思想といわれることもあるが、
いまいち腑に落ちない。

人間はなにかがあらかじめ定められているわけではなく、
実存が先行し、そこに自身の行動、選択で意味を結び付けていく存在である。
サルトルは実存主義をそのように説明する。

不条理な世界、そこに生きる人物を描くカミュの作品群から、
実存主義的な印象も受ける。
とくに「ペスト」の群像劇はまさしくそういった流れも感じる。
だが、それだけではなく、やさしさや愛の方が大きく感じられるのだ。

実際、カミュは実存主義者とくくられることを否定していたそうで、
サルトルとは論争も繰り広げている。

サルトルの実存主義には時代のせいもあり、
政治的な意思のような強さを感じる
対して、カミュに感じるのは無常観に近い。

世界は無常だ。だがそこにあるのは諦観ではなく、
無常ゆえに刹那を生きようという思いを感じるのだ。

「ペスト」の時代に比べて、世界は身近になり、
小説に描かれていたように、街を封鎖するようなこともかなわず、
世界中にコロナウィルスが広がっていっている。
場当たり的政治が不安に拍車をかけ、
この騒動と同時進行で進む経済への影響も計り知れない。
冒頭に書いた通り、これはわずか1か月前には想像もしなかった事態だ。

世界は無常だ。
コロナは一つの例に過ぎず、世界は本来無常であふれている。
昨日の世界は今日の世界ではなく、刻一刻と変わっていく。
無常の中で奇跡が続き、いまの世界が、我と汝が、その関係がある。
我々ができるべきことは刹那を大切に生きることだ。


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そんな不安な中ですが、
ライブをやらせていただきます。

まずはNILOMETER

3月1日(日)
阿佐ヶ谷天
 series IMPROVISATION

共演
procede
marioノブナガ本田ユニット
celibattere+ゲスト 柴田美和(ダンス)、北田めい(ペインティング)

タイトル通り、インプロ主体のイベントです。
NILOMETERも少しインプロに挑戦してみる予定です。


3月4日(水)
西荻久保ピットバー

詳細未定

そしてABNORMALSは
すでに何度か告知させていただいているこちら。
 

よろしくお願いします。



2020年2月2日日曜日

プラトンのクリトン


プラトンという古代ギリシャの哲学者がいる。
自身の先生にあたるソクラテスを主人公に、
ソクラテスの、ひいては自身の思想を多数の作品で著わしています。

その書式は「対話編」といわれ、
主にソクラテスと登場人物との対話の形で描かれる。

論法はいわゆる演繹法といわれるもので、
A=Bを証明するに当たり、
A,Bと同じ特徴を持つCを持ち出し、
A=Cであることを納得させるとともに、B=Cであることを説明。
これによりA=C=Bであること、
ひいてはA=Bであることを納得させるという論法。

この論法、結構嫌味っぽい。
話しに乗っているうちに、
ソクラテスの意見に同意せざるを得ない状況にされてしまうのだ。
実際、登場する反論者は露骨にイライラしたり
投げやりになったりする場面もある。

そんなプラトンの作品の中で、
私が一番好きなのは「クリトン」という作品。

ソクラテスは若者を邪教に導くという罪で告訴され、
有名な「ソクラテスの弁明」という作品の中で自身の弁明を行うものの、
市民投票の末、僅差ではあったものの死刑を宣告される。
こんなことでアテナイ随一といわれる哲人が死刑になることに驚かされるが、
上記の嫌味に当てられた街の有力者から訴えられた形だ。

「クリトン」では刑の執行を待つソクラテスのもとに赴いた、
弟子のクリトンが脱走を促すが、
それに対してのソクラテスの思想が語られる。

そもそも死刑レベルの話しではないこと、
脱走しても受け入れてくれる隣国があること、
その準備が出来ていることなどを理由に脱走を促すのだが、
ソクラテスは受け入れない。

その理由を要約すると、
自分はアテナイに生まれ、そこに生きてきた。
国を出ようと思えば、出る機会もあったがそうせず、
この国で生活し、その国法を遵守してきた。
経緯はどうあれ、その国法が決定した死刑であれば、
当然受けなくてはいけない。
それを受け入れないことは今までの自分とこの国を否定することになる。

この言葉にクリトンは何も言い返せずに
ソクラテスの救出をあきらめることになる。

ソクラテスの強さ、凛とした姿勢、国への愛に打たれる。


私は日本に生まれて、
日本人であることに誇りを持って生きてきた。
だが、嫌な話も多い。
ことに最近多い気がする。

外交、経済、原発、基地問題、社会保障などなど、
いろいろな考えがあるとは思うが、
その裏に常に見え隠れする嘘、隠蔽、ルール違反が本当に不快だ。

先日、選挙法違反が発覚した前経産大臣は私と同郷の人間だ。
中学校の先輩に当たり、彼を教えた理科の先生に私も教わった。
優しくて好きな先生だった。

そんな先生が、駅前で演説する
まだまだ駆け出しだった前大臣を見かけたところ、
彼の方から先生に声をかけてくれたと喜んでいたのを覚えている。
先生にとって自慢の教え子の一人だったのだろう。
すごくうれしそうだった。

思想や政策、外交方向性は多様な考えがあって当然だ。
だからこそ政治があり、政治家は国民の代表として話し合う。
その場において、嘘をつかない、規則を守るっていうのは大前提ではないのか。
そんなこともできないのに政治家を志したのか。
それとも政治家になってから転げ落ちたのか。

意見を押し通すために嘘で固めたり、
事実を隠したりなんていうのは
政治家の前に人として外道だ。

決定を誤ることも、上手く行かないこともあるだろう。
それはそれで仕方ない。
それでも我々が選んだ代表の間違いなのだから、
と納得できる国、国政であって欲しい。
私の愛する日本はソクラテスにも胸を張れる国家であってほしいものだ。


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さて、いよいよ来週になります。

NILOMETER初企画。


”SUNRAIN BLACKOUT"
2月8日(土)
阿佐ヶ谷 天

NILOMETER
CALQUE

OPEN 19:00 
START 19:30
1500円+1D

よろしくお願いします!