2020年12月28日月曜日

あとわずか

 

今年も残すところあとわずか。

 

いまさら言うまでもありませんが

今年は本当に大きく世界が変わった。

自分だけの話ではなく、世界中が直面した変化。

こんなことは生まれて初めてだ。

 

そんな中、個人的には過去に無いくらい、

楽器の練習に時間を使った一年でした。

 

以前の記事にも書かせていただきました通り、

沈潜の年と決め、じっくりと演奏を磨いてきた次第。

 

昨日も今年最後の練習として、

近所の施設の音楽室を借りてじっくり練習。

この施設、民間の研修施設といった感じで、

防音室を音楽室として貸してくれる。

130017304時間半借りて、まさかの440円。

最近は毎週末ここで練習している。

 

今年最後ということで、動画など録ってみました。

少しは上達しているのかな・・・

 


 

来年はどんな世の中になっていくのだろうか。


ステイホームの傾向は続いていくことだろう。

厳密には終わりというものは無く、

ウィルスと共存しながら生きていくしかない。

 

コロナへの対応にはいろんな考え方がある。

感染率が高く、感染すれば死に至る可能性も低くないという人もいれば、

風邪の一種であり、普段通りの生活で問題無いという人もいる。


正直、どうすればいいのかわからない。

というか、正解などないのだと思う。

 

ただ、間違いだと思えるのは、

自分の姿勢を他人に押し付けることだ。

それぞれの考えを尊重し、その中の自分の在り方を決めていく。

きっと今までよりもしっかりと自分に向き合った生き方が

求められているのかと思う。

 

そしてもう一つ間違いだと思うのは、

暗くなりすぎることだ。

コロナだけでなく、それに伴う経済、政治、環境の不安定、

もしくは上述のような意見の相違で疲れることもある。

どうしても暗くなりがちだ。

 

だが、そんな世の中を楽しみながら生きていきたいものだ。

免疫という面からも笑顔で生きている方がいいはずだ。

 

そんなわけで来年も笑いながら

相変わらず自分の音楽を模索しながら生きていきます。

 

皆様も笑顔でよいお年をお迎えください。



 

2020年12月16日水曜日

フレットレス改造

 

夏ころ、勢いで手持ちのベースを1本フレットレスに改造した。

私は2本しかベースを持っていません。

そのうちの1本を改造したのだから、

我ながらなかなかの勢いだ。

 

ニッパーでフレットを引っこ抜き、

隙間をパテで埋め、指板を削って平面にする。

フレットレス化は若いころにもやったことがあったので、

素人改造ながら、何とか弾けるレベルには仕上がった。



 

フレットレス化の目的は12音階からの離脱実験、自由化でした。

今の私のスタイルはソロ演奏なので、

離脱したところで協奏のルールを乱すものでもない。

そこでいっそフレットを抜いてしまった次第。


フレットレスであれば12音階以外の音を選ぶことができる。

例えば5度コードを弾くときに

ルート+「5度よりちょっと下」の音を重ねることで、

聴いたことの無い不安定なコードが鳴るのではないかと期待した。

 

だが、残念ながら、狙い通りにはいかない。

それはぼやけた5度コードでしかなく、

単純に美しくない響き。

それはそれで面白くもあるが

これを生かす方法が思いつかない。


コードに限らず、スケール、アルペジオすべてにおいて同じ感じで、

「離脱遊び」をしてみても、解像度の低い音階にしか聞こえず、

結局、12音階に乗るように弾くことになる。

※ただ、メロディーを弾く際にはその限りではなく、

不思議なメロディーが得られそうな気がするのだが、

曲としてまとめるにはメロディーだけでは構築が難しい。

 

これは多分に自分の実力不足があるんだろうとも思う。

フレットが無いことで12音階を超えた世界を描くという術は

きっと存在するはずだと信じているが

まだ私にはできない。

 

 

そんな折、現代思想誌の鈴木大拙特集を読んでいて

「ひじ、外に曲がらず」という言葉に出会った。

 

禅思想を西洋に伝えた鈴木大拙はこの言葉によって

新たな境地に達したという。

 

ひじは外には曲がらない。

これは制限や不自由ではなく、必然であり、

その中にも十分に自由がある。

必ずしも「自由度=自由」ではない。

捉え方次第で「制限=自由」でもありえる。


上述のフレットレスでの自由度模索経緯と

この言葉を重ねるには大仰な気もするが、

フレッテッドだからって自由が得られないわけではない。

こっちの道もまだまだ遠くて深い。


フレットレスは今後も研究を続けます。

いつか自分なりのフレットレスの在り方が見つかるのを期待して。

もう抜いちゃったし・・・

ただ、改めてフレッテッドの可能性を考えるいい機会にもなりました。


 

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さて告知です。


 

 国分寺モルガーナのブッキングスタッフとしても活躍中の

仕掛け人ユリアキ君の企画です。

まだ大出を振ってライブにお誘いしにくい状況ではありますが、

NILOMETER、来年一発目にして久々のライブハウス出演。


ご検討、よろしくお願いします。


 

 

 

2020年12月14日月曜日

ジョロウグモ

 

私の住んでいる辺りでは、

911月になると、ジョロウグモの巣がいっきに増えてくる。

 

近所を歩きながら上を見上げると、

電柱や木など、幾何学模様の巣がたくさん見当たる。

 

当然、我が家にも巣が張られた。

軒先に特大の巣。真ん中にド派手な色彩の巨体。


最初はぎょっとしたものでしたが、

だんだん慣れてくるものだ。

家を出るたびに何の気なく確認しているうちに

親しみがわいてくる。

 

せっせと巣を張りなおしたり、

巣にくっついた小虫を回収する様等見ていると、

ついついぼーっと眺めてしまったりする。

ちょっとした憩いとでもいう感じだ。

 

そのうち、名前まで付けだして、観察することになる。

その名はデーハー。

派手な柄から、妻との雑談の中で決定。

何ともくだらないが、まぁそんなもんだろう。

 

 

12月に入り、徐々に寒さが厳しくなる。

気が付いたら、近所の巣は大半が無くなっている。

調べてみたところ、ジョロウグモは越冬できないらしく、

冬とともに自然と土に還っていくそうだ。

 

デーハーも明らかに動きが悪くなっていく。

以前は息をかけると、大慌てで巣の端に移動したりしたものだが、

少し、足先を動かす程度になった。

 

だが、相変わらず巣の真ん中でいつもの姿勢でとどまっている。

美しい巣にド派手な巨体。

おぞましくもありながら、凛としていて、

なんだか尊い。

 

寒さは厳しさを増し、風は冷たく、

餌となる羽虫もほとんどいない。

だが、いつもの姿勢。

デーハーは足掻かない。

 

ふと、種田山頭火の自由律俳句を思い出す。

「蜘蛛は網張る私は私を肯定する」

 

この句を詠んだときの山頭火の心境はわからないが、

泰然としたデーハーの姿に照らした時、残念ながら、

私は自分を肯定する境地には至れない。

全然届かない。

 

寒さが増してきて、気が付くと巣が空っぽになっていた。

気になって探すと、縁側の下にじっとしているデーハーを見つけた。

 

数日後、繭のように糸玉を作り、中に卵を産んだ。

守るかのように卵の横でじっとしている。

そして、今朝、固くなって動かなくなった。

 

デーハー、お疲れ様でした。

来年、貴方の子供たちに会うことだろう。

楽しみだ。

あんまり家の中には入ってきてほしくないが。

 

 

今日は冬晴れの快晴。

彼女の最後の網はまだ軒にかかったままだ。

なんとなく、このまま年末まで残しておこうかと思う。

 

 

 

 

2020年12月4日金曜日

合気道

 

最近、合気道を習い始めた。

 

以前から、興味をもっていたものの、

なかなか踏み出せずにいたのですが、

45歳にしてとうとう挑戦してみた。

 

また、武道という今までの自分に無い体の動かし方、使い方を会得できれば、

音楽にも今までにないものが導入できるようにも期待して。

 

新しいことを始めるとなると、少し不安もあり、

まずは見学に参加し、雰囲気をうかがわせていただく。


見学の流れで軽い技をかけていただくことに。 

合気道の動画はいろいろ見たことがありましたが、

実際に受けるのは初めて。

 

相手の胸倉をつかむ。その手を軽く握られると、

簡単に腰が崩されてしまう。

胸倉をつかんだ手を離せば脱出できそうなものなのですが、

なぜか手が離せない。

 

動画などで近似の技を見ていた時は

「手を離せばいいじゃん」くらいに思っていましたが、

いざ実際に受けると、全く手が離れない。

自分の手なのに思う通りに動かないのだ。

そんな不思議を目の当たりにして、入門を決意した次第。

 


まだまだ入門したてで何にもできないのですが、

先生のお話しを聞いているだけでもいろいろと参考になったり、

思い当たることがあったりして興味深い。

 

例えば、相手に手首をつかまれ、それをほどく際、

筋力でほどこうとしても限界がある。

だが、手を動かす方向に「気」を入れると、

簡単にほどくことができる。

 

「気」というと抵抗がある人もいるかもしれませんが、

「意思」と言い換えてもいいのかもしれません。

 

握られた手の向いている方向に向かって、

その先にある何かを取ろうとするように、意思を込めて伸ばすと、

筋量からは想像できないほどの力が出る。

先生曰く、腕の力ではなく、全身の力が乗るのだそうだ。

 

 

気を込めることによって効果が生まれる。

この現象で思い当たることがある。

 

ele-phantをやっていたころ、

歌についてコミさんからいろいろと教えてもらう中で、

目先のマイクに向かって歌うのではなく、

遠くに声を飛ばすように意識して歌うといい、というアドバイスをもらった。

 

上述の「気」の効果と少し近いのかもしれない。

「歌う」という行為だけでいうと、大差ないようにも思えてしまうが、

意思を乗せることで「いい歌」になるということなのかも。

だからコミさんの歌は届きやすいのだろう。

上述の合気道の話同様、より強い力のようなものがこもるのかと思う。

 

これは歌や合気道にかぎった話ではない。

どんな楽器、もしくはどんな行為であっても同じことなのだろう。

何か伝えたいことがあるなら「意思」「気」を込める。

当たり前のようだけど、簡単じゃない。


不安とともにスタートした45の手習い。

さっそく、新たな気づきに出合うことができた。

体はしんどいですが、

踏み出してみて良かった。