2019年5月29日水曜日

ランプの宿

先週末、新潟県の「駒の湯山荘」という温泉宿に行ってきた。
同宿は大湯温泉郷を超えてさらに山奥にある
wifiや携帯電話はおろか、水道も無く、
電気も自家発電での最低限供給という秘湯の宿。
温泉の噴出量はすさまじく、毎分2000リットル。
噴水のように湧き出ています。

水道もこの温泉を利用し、食事もこの温泉水で作られる。
自家発電ゆえに電灯は最低限。
その代わりというのでもないが、
夜は各所にオイルランプを灯して明かりにする。
そこから通称「ランプの宿」と呼ばれる。

毎年5月、妻の誕生月にあわせて
この宿に訪問する。
今年はライブや妻の展示などもあり、先週末に行ってきた次第。

大自然に囲まれる環境。
目の前は初夏の緑。
仰ぎ見ればまだ雪の残る岩山が見え、
渓流と温泉の吹き出る水流の音を通低音にするように、
鳥、カエルの声が響く。
息をのむ。
言葉にできない美しさだ。

誰しもそうかと思いますが、私は自然が大好き。
だが、その中に飛び込んで暮らすというのは
都会に馴染みすぎた自分にはあまりにハードルが高い。
残念ながら踏み出せない。
だからこそ、こうしてたまに自然に包まれると
そんな憧憬をつよく意識する。

確か鈴木大拙さんの本だったと思うが、
もともと自然と言う言葉は今と違う意味の言葉だったそうな。
NATUREという言葉を訳すにあたって、仏教語の自然を充てたのが
いまの「自然」の始まりだという。

自然と言う言葉の元の意味は
文字通り「自ずから然る。」
そんな言葉をNATUREに充てるとはすごい詩的感覚だ。
「自ずから然る」ことができないからこそ、
自然に憧れてしまうのかもしれない。


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さて、ぼちぼち6月。
ライブ告知です。
まず、ABNORMALS

6月8日 渋谷RUBY ROOM

自身加入後初のワンマンライブです。
(といっても強烈なゲストライブがありますが。)
演奏時間も初の領域。
体力、集中力はもつのだろうか・・・
当日までに高めて行きます。


NILOMETERは2本
6月7日(金)  阿佐ヶ谷 天
w/空間猫,Gumi

6月13日(木) 東高円寺2万電圧
w/ashigaru,バルコニア,W/N

よろしくお願いします!

2019年5月19日日曜日

道のりに胸を張れ

「何かになりたい」とか「何かを成したい」っていうのは
普遍的な希望のように思う。
誰しも、大なり小なりそんな願望を持って生きているだろう。
何かを作るとき、
良い作品を作りたいっていうのもそんな願望の一種だろう。
例えば自分も良い曲を作りたいと常々思っている。


禅の考え方に「質問を発するとき、答えは質問者の中にある」というものがある。
例えば「生きる」とは何なのかと問うとき、
質問者はすでに生きており、答えを持っているということになる。


上述の願望にこの考えを当てはめてみる。


例えば「良い曲を作りたい」と思うとき、
すでに「良い曲」の概念、イメージは願望者の中にあるはずである。
逆に言うと、その概念、イメージが無い中での願望は
漠然とした願望、絵空事ということになってしまう。
つまり、何かになりたいと思うとき、
その答えは自分にあり、自分から導かれるはずのものなのだろう。
ではどうやって自分の中に答えを育てるか。
それを考えるに当たり、前回書いた森有正の「経験、変貌」を思う。


自分を育てるのは経験だ。
だが経験とは事件の羅列ではなく、
積み重なる日常であり、それこそが経験だ。


ベルクソンは時間を空間的なものではなく、持続するものだと考える。
我々は通例的に時間というものを
現在を中心に過去、未来に伸びる線のようなものとして捉え、
時間座標のなかで出来事が積み重なり、
それを時間、歴史と考えてしまう。
だが本来、時間、歴史はそんなものではなく、1つの持続であると考える。


経験というのも年表の上にポイントポイントで置かれていく事件群ではなく、
持続として一個のものだ。
森有正の経験論を私はこのように捉えている。


華々しいことや自慢できるようなこと、自分を揺るがした大事件ばかりではなく
どんなに些細なことでも、つまらないこと、
他人に話せるようなことじゃないとしても、
全ては持続であり、経験だ。
それが自分を育て、何かに臨むときの指針を作り出す。


自分の過去や現状を卑下していては指針はゆがんでいく。
簡単なことではないが、今までの道のりに胸を張って生きていくのだ。


小林秀雄は言っている。
「大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。」


打算や計算づくで歩くのではなく、
歩き方を整える。これに尽きるのだと思う。


歩き続けたその先で、
ふと自分がなりたかった何かになっている自分に気付けるのかもしれない。



ブログ再開


 森有正さんが変貌と呼ぶ現象がある。
我々は眼に見えない、気に止まらないような体験の積み重ねを繰り返し、
経験を経て、変貌していく。 
例えば苗木は数時間、数日見ているなかでは
ほとんど変化を感じない。
だが、1年、10年経ったとき、それはすでに木になっており、
巨木に変貌する。
経験というのはこういうものであり、
文字を見ただけ、話しを聞いただけでその気になれるようなもの、
わかった気になるようなものは体験であり、経験ではないという。
いわゆる技能習得のようなものもそれだろう。
全ては瞬間の体験でつかんだ知識やコツよりも
積み重ねていく目に見えないレベルのものが「経験」であり、
巨木変貌への本質であるように思う。
 
森有正さんの変貌についての言葉の中で、
2ヶ月前に書いたものを読んだときにそれを超えている自分に気付くと書いている。
 
考えやそれを書きとめたものと今の自分が乖離いていくというのは
朝令暮改的なあやふやさ、いい加減さを感じてしまうが、
その間に自分が成熟し、経験全体が変容しているゆえの変貌として
ある種、前向きに捉えている様に感じた。

自分のごときものは常に考えが揺れ動く。
そして言葉もその意味も変わっていく。
それがいやで考えを書き留めるのを辞めたのだが
それは経験の変容であり、変貌であり、成熟ともいえるのかもしれない。
そんなことを考え、またこんな感じのことを書き始めることにしました。