2020年12月28日月曜日

あとわずか

 

今年も残すところあとわずか。

 

いまさら言うまでもありませんが

今年は本当に大きく世界が変わった。

自分だけの話ではなく、世界中が直面した変化。

こんなことは生まれて初めてだ。

 

そんな中、個人的には過去に無いくらい、

楽器の練習に時間を使った一年でした。

 

以前の記事にも書かせていただきました通り、

沈潜の年と決め、じっくりと演奏を磨いてきた次第。

 

昨日も今年最後の練習として、

近所の施設の音楽室を借りてじっくり練習。

この施設、民間の研修施設といった感じで、

防音室を音楽室として貸してくれる。

130017304時間半借りて、まさかの440円。

最近は毎週末ここで練習している。

 

今年最後ということで、動画など録ってみました。

少しは上達しているのかな・・・

 


 

来年はどんな世の中になっていくのだろうか。


ステイホームの傾向は続いていくことだろう。

厳密には終わりというものは無く、

ウィルスと共存しながら生きていくしかない。

 

コロナへの対応にはいろんな考え方がある。

感染率が高く、感染すれば死に至る可能性も低くないという人もいれば、

風邪の一種であり、普段通りの生活で問題無いという人もいる。


正直、どうすればいいのかわからない。

というか、正解などないのだと思う。

 

ただ、間違いだと思えるのは、

自分の姿勢を他人に押し付けることだ。

それぞれの考えを尊重し、その中の自分の在り方を決めていく。

きっと今までよりもしっかりと自分に向き合った生き方が

求められているのかと思う。

 

そしてもう一つ間違いだと思うのは、

暗くなりすぎることだ。

コロナだけでなく、それに伴う経済、政治、環境の不安定、

もしくは上述のような意見の相違で疲れることもある。

どうしても暗くなりがちだ。

 

だが、そんな世の中を楽しみながら生きていきたいものだ。

免疫という面からも笑顔で生きている方がいいはずだ。

 

そんなわけで来年も笑いながら

相変わらず自分の音楽を模索しながら生きていきます。

 

皆様も笑顔でよいお年をお迎えください。



 

2020年12月16日水曜日

フレットレス改造

 

夏ころ、勢いで手持ちのベースを1本フレットレスに改造した。

私は2本しかベースを持っていません。

そのうちの1本を改造したのだから、

我ながらなかなかの勢いだ。

 

ニッパーでフレットを引っこ抜き、

隙間をパテで埋め、指板を削って平面にする。

フレットレス化は若いころにもやったことがあったので、

素人改造ながら、何とか弾けるレベルには仕上がった。



 

フレットレス化の目的は12音階からの離脱実験、自由化でした。

今の私のスタイルはソロ演奏なので、

離脱したところで協奏のルールを乱すものでもない。

そこでいっそフレットを抜いてしまった次第。


フレットレスであれば12音階以外の音を選ぶことができる。

例えば5度コードを弾くときに

ルート+「5度よりちょっと下」の音を重ねることで、

聴いたことの無い不安定なコードが鳴るのではないかと期待した。

 

だが、残念ながら、狙い通りにはいかない。

それはぼやけた5度コードでしかなく、

単純に美しくない響き。

それはそれで面白くもあるが

これを生かす方法が思いつかない。


コードに限らず、スケール、アルペジオすべてにおいて同じ感じで、

「離脱遊び」をしてみても、解像度の低い音階にしか聞こえず、

結局、12音階に乗るように弾くことになる。

※ただ、メロディーを弾く際にはその限りではなく、

不思議なメロディーが得られそうな気がするのだが、

曲としてまとめるにはメロディーだけでは構築が難しい。

 

これは多分に自分の実力不足があるんだろうとも思う。

フレットが無いことで12音階を超えた世界を描くという術は

きっと存在するはずだと信じているが

まだ私にはできない。

 

 

そんな折、現代思想誌の鈴木大拙特集を読んでいて

「ひじ、外に曲がらず」という言葉に出会った。

 

禅思想を西洋に伝えた鈴木大拙はこの言葉によって

新たな境地に達したという。

 

ひじは外には曲がらない。

これは制限や不自由ではなく、必然であり、

その中にも十分に自由がある。

必ずしも「自由度=自由」ではない。

捉え方次第で「制限=自由」でもありえる。


上述のフレットレスでの自由度模索経緯と

この言葉を重ねるには大仰な気もするが、

フレッテッドだからって自由が得られないわけではない。

こっちの道もまだまだ遠くて深い。


フレットレスは今後も研究を続けます。

いつか自分なりのフレットレスの在り方が見つかるのを期待して。

もう抜いちゃったし・・・

ただ、改めてフレッテッドの可能性を考えるいい機会にもなりました。


 

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さて告知です。


 

 国分寺モルガーナのブッキングスタッフとしても活躍中の

仕掛け人ユリアキ君の企画です。

まだ大出を振ってライブにお誘いしにくい状況ではありますが、

NILOMETER、来年一発目にして久々のライブハウス出演。


ご検討、よろしくお願いします。


 

 

 

2020年12月14日月曜日

ジョロウグモ

 

私の住んでいる辺りでは、

911月になると、ジョロウグモの巣がいっきに増えてくる。

 

近所を歩きながら上を見上げると、

電柱や木など、幾何学模様の巣がたくさん見当たる。

 

当然、我が家にも巣が張られた。

軒先に特大の巣。真ん中にド派手な色彩の巨体。


最初はぎょっとしたものでしたが、

だんだん慣れてくるものだ。

家を出るたびに何の気なく確認しているうちに

親しみがわいてくる。

 

せっせと巣を張りなおしたり、

巣にくっついた小虫を回収する様等見ていると、

ついついぼーっと眺めてしまったりする。

ちょっとした憩いとでもいう感じだ。

 

そのうち、名前まで付けだして、観察することになる。

その名はデーハー。

派手な柄から、妻との雑談の中で決定。

何ともくだらないが、まぁそんなもんだろう。

 

 

12月に入り、徐々に寒さが厳しくなる。

気が付いたら、近所の巣は大半が無くなっている。

調べてみたところ、ジョロウグモは越冬できないらしく、

冬とともに自然と土に還っていくそうだ。

 

デーハーも明らかに動きが悪くなっていく。

以前は息をかけると、大慌てで巣の端に移動したりしたものだが、

少し、足先を動かす程度になった。

 

だが、相変わらず巣の真ん中でいつもの姿勢でとどまっている。

美しい巣にド派手な巨体。

おぞましくもありながら、凛としていて、

なんだか尊い。

 

寒さは厳しさを増し、風は冷たく、

餌となる羽虫もほとんどいない。

だが、いつもの姿勢。

デーハーは足掻かない。

 

ふと、種田山頭火の自由律俳句を思い出す。

「蜘蛛は網張る私は私を肯定する」

 

この句を詠んだときの山頭火の心境はわからないが、

泰然としたデーハーの姿に照らした時、残念ながら、

私は自分を肯定する境地には至れない。

全然届かない。

 

寒さが増してきて、気が付くと巣が空っぽになっていた。

気になって探すと、縁側の下にじっとしているデーハーを見つけた。

 

数日後、繭のように糸玉を作り、中に卵を産んだ。

守るかのように卵の横でじっとしている。

そして、今朝、固くなって動かなくなった。

 

デーハー、お疲れ様でした。

来年、貴方の子供たちに会うことだろう。

楽しみだ。

あんまり家の中には入ってきてほしくないが。

 

 

今日は冬晴れの快晴。

彼女の最後の網はまだ軒にかかったままだ。

なんとなく、このまま年末まで残しておこうかと思う。

 

 

 

 

2020年12月4日金曜日

合気道

 

最近、合気道を習い始めた。

 

以前から、興味をもっていたものの、

なかなか踏み出せずにいたのですが、

45歳にしてとうとう挑戦してみた。

 

また、武道という今までの自分に無い体の動かし方、使い方を会得できれば、

音楽にも今までにないものが導入できるようにも期待して。

 

新しいことを始めるとなると、少し不安もあり、

まずは見学に参加し、雰囲気をうかがわせていただく。


見学の流れで軽い技をかけていただくことに。 

合気道の動画はいろいろ見たことがありましたが、

実際に受けるのは初めて。

 

相手の胸倉をつかむ。その手を軽く握られると、

簡単に腰が崩されてしまう。

胸倉をつかんだ手を離せば脱出できそうなものなのですが、

なぜか手が離せない。

 

動画などで近似の技を見ていた時は

「手を離せばいいじゃん」くらいに思っていましたが、

いざ実際に受けると、全く手が離れない。

自分の手なのに思う通りに動かないのだ。

そんな不思議を目の当たりにして、入門を決意した次第。

 


まだまだ入門したてで何にもできないのですが、

先生のお話しを聞いているだけでもいろいろと参考になったり、

思い当たることがあったりして興味深い。

 

例えば、相手に手首をつかまれ、それをほどく際、

筋力でほどこうとしても限界がある。

だが、手を動かす方向に「気」を入れると、

簡単にほどくことができる。

 

「気」というと抵抗がある人もいるかもしれませんが、

「意思」と言い換えてもいいのかもしれません。

 

握られた手の向いている方向に向かって、

その先にある何かを取ろうとするように、意思を込めて伸ばすと、

筋量からは想像できないほどの力が出る。

先生曰く、腕の力ではなく、全身の力が乗るのだそうだ。

 

 

気を込めることによって効果が生まれる。

この現象で思い当たることがある。

 

ele-phantをやっていたころ、

歌についてコミさんからいろいろと教えてもらう中で、

目先のマイクに向かって歌うのではなく、

遠くに声を飛ばすように意識して歌うといい、というアドバイスをもらった。

 

上述の「気」の効果と少し近いのかもしれない。

「歌う」という行為だけでいうと、大差ないようにも思えてしまうが、

意思を乗せることで「いい歌」になるということなのかも。

だからコミさんの歌は届きやすいのだろう。

上述の合気道の話同様、より強い力のようなものがこもるのかと思う。

 

これは歌や合気道にかぎった話ではない。

どんな楽器、もしくはどんな行為であっても同じことなのだろう。

何か伝えたいことがあるなら「意思」「気」を込める。

当たり前のようだけど、簡単じゃない。


不安とともにスタートした45の手習い。

さっそく、新たな気づきに出合うことができた。

体はしんどいですが、

踏み出してみて良かった。











2020年10月21日水曜日

我流弁証法

 

弁証法という思考法がある。

 

矛盾する二つの命題を一段高い次元から、

矛盾のない形にとらえなおすことを言う。

この捉えなおしを昇華、アウフヘーベン、アセンションなどと呼びます。

 

WEBでわかりやすい例えを見つけたので、

引用させていただく。

 

Aさんはあるものを四角だといい、

Bさんはそれを丸だという。

これを弁証法で昇華すると、

二人の見ているものは円柱ということになる。

 

円柱は見る方向によって丸にも四角にもなる。

Aさん、Bさんが2次元的にとらえてるものを、

3次元的にとらえることで円柱という解を得るのだ。

 

最初に弁証法を知ったとき、

なんて素敵な思考法だろうと思った。

人生で矛盾を抱えることはよくあるが、それに解を見出せるなら、

世の中をもっとシンプルに捉えることができるんじゃないか。

そんな風に思ったのだ。

 

だが、「一つ上の次元から」なんて簡単なことじゃない。

円柱は円柱を知っている人にこそ見えることであり、

矛盾を抱えているAさん、Bさんには見えないことなのだ。

つまり、矛盾を抱えている当人には答えが得られない。

うーむ。それじゃ救いがない。

 

 

だが、最近少し考えが変わってきた。

矛盾を抱える当人も時間、経験を経ることで、

「一つ上の次元」なんていうSFみたいな行為がなくとも

気づかぬうちに昇華が得られるのではなかろうか。

 

 

自分に当てはめて例示します。

「音楽はエンターテイメントであり、芸術でもある。」

こんな命題に数年来悩んでいた。

自分の音楽はどちらでもありながらどちらにもなれず・・・

どちらでありたいのか、両立できるものなのか・・・

そんな行ったり来たりの気持ちの中で苦悩したのだ。

 

だが、最近ふと解決した。

私の到達した答えは

「そんなこと、どうでもいい」 だ。

 

この答えを昇華と呼ぶのはさすがに乱暴で抵抗があるが、

今の心境はまるっきりそんな感じなのだ。

「どうでもいい」以外に答えは無く、

それで十分だと今の自分は納得している。

 

これは時間、経験によって変わっていった心境なのだと思う。

といっても、常に考えて、努力して、修行して・・・とかいうのではなく、

自分なりに音楽を続けて、生活を続けてきた中でふと気づいたことなのだ。

弁証法っぽく言うなら、心境が別の次元に至ったとか言えるのかもしれない。

(すごく大仰な表現になっちゃって恐縮ですが・・・)

 

ちゃんと生きていれば、いずれ昇華が訪れる。

 


ちなみに上記の悩みを音楽関係の先輩に聞いたらおそらくこんなことを言われるだろう

「おめえ、下らねえことをうじうじ考えてんじゃねえよ。」

(口調はベ〇ボーンズのG氏をイメージ)

 

いや、まったくその通りなのだ。

そんなことは脇に置いて、ちゃんと生きて、続けていればいいのだ。

 

 

先日、夜中にふと気づいた話でした。

あーすっきりした。

 

 

 

 

 

2020年10月14日水曜日

カメラの存在

最近、YOUTUBEでディスカバリーチャンネルのサバイバル動画をよく見てる。

 

サバイバル術にたけた冒険家が、

自身を撮影するためのカメラだけを持ち、

文字通り丸裸でジャングル、砂漠、サバンナなどに降り立ち、

10日間を一人で過ごす。

 

水から始まり、火、食料、家を確保していき、

最終的にはそこそこ快適に生活できそうな状況に至る。

その様子を自分で撮影していくのだ。

 

サバイバル術もさることながら、

心の強さがすごい。

どんな不良でも、裸でジャングルに置かれれば泣きだすといった話を聞いたことがあるが、

まさにその状態に身を置くわけであり、

不安や孤独は計り知れない。

 

どうやってそれを克服しているのか。

 

おそらく、自分を撮影するカメラに対して、

状況、心情の説明を行うという行為によって

カメラ、ひいてはカメラの向こうの視聴者が仮想話し相手となり、

それが心の支えになっているのではないだろうか。

 

 

西田幾多郎に「我と汝」という考え方がある。

氏の文章は非常に読みにくいのだが、以下のように理解している。

 

我(主観)は感覚によって汝(客観)をとらえるが、

それは一方的なものではなく

汝があるからこそ我の存在も確立される。

我によって汝であり、同時に汝によって我である。

 

主観と客観は別個の存在とされながら、

同時に同一の場を構成する要素である。

この考えに立つとき、主観と客観の明確な区別は不可能となり、

主観=客観という矛盾が存在する。

だが、この矛盾こそが我々が生きている世界なのだ。

 

他人がいるか否かで世界の性格が変わるのだ。

他人がいることで生き方が変わる。

この時、他人の存在は自身の存在理由と言えるかもしれない。

 

カメラ(他人)の存在があることで、

冒険家は困難を乗り切る力を得ているように思う。

実際の他人ではなくカメラである以上、

それは大きな効力ではないとは思うが、

それでも「他人の存在」たりえ、

自身の存在理由たりえるのだろう。

 

 

コロナ以降、ライブが簡単にできない状況が続いている。

以前のように当たり前にライブがあり、人が集まる状況ではなくなってしまった。

 

そんな中でのライブ活動として、配信を選ぶ人も多い。

先のことはわからないが、

密な環境を避けることが必須とされる以上、

今後、配信はライブ活動の主軸の一つとなっていくのかもしれない。

 

配信演奏時の観客はカメラだ。

「他者」ではあるのだが、ちょっと遠い「他者」。

いままでのライブのように目の前に人がいて、

その人と共にライブ環境を作るというわけにはいかない。

 

カメラ前の音楽表現は少しずつ変化していくだろうと想像しています。

より配信に適した形に。

これは否定的な見解ではなく、期待しての言葉です。

環境が変わることで、今まで聞いたことの無い音楽が出てくるかもしれない。

音楽は過去の歴史でも変わってきた。

これからどうなっていくのか。楽しみだ。

 

オールドタイプの私は対応できるか自信がありませんが・・・

 

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さて、そんな中、久々のライブ告知です。


-Burst Your Picnic- @宮ヶ瀬湖畔園地 野外音楽堂 ◉2020年11月7日(土) 出演 ■DAYBREAK ■NAMASTE ■NILOMETER ■NOT IT ? YEAH! ■RENA ■WEIGHT 挨拶 11:10〜 開演 11:20〜 終演 16:00 入場観覧 無料 雨天中止 (開演途中の小雨続行)



密になりえない、自然の中でのライブ。

すごく楽しみです。

 

思えば企画者のDAYBREAK 石浦さんとも古い付き合い。

20年まえくらいに彼の企画に参加させていただいて以来。

 

その時も会場は今回のように公共施設で、

八王子市の文化会館音楽室だった。

DIY、ローチャージの企画で興味深く参加させていただいた記憶だが、

あれから成人式を迎えられるくらいの年月が経過した。

 

おたがいおじさんになるわけだ。




2020年9月21日月曜日

活動休止


 

SNSなどでご覧になった方もいらっしゃるかと思いますが、

ABNORMALSは活動休止することになりました。

 

往々にして、こういった際のコメントは説明不足ととられるものかと思います。

ですが、明確にコレという休止の理由というものが無いのが実情でして、

一定の達成感とともに休止を決意した次第です。

 

 

ABNORMALSでの私の活動は5年間でしたが、

いままでの音楽活動では味わえなかったような

たくさんの経験をさせていただきました。

 

仲間からは典型的なアンダーグラウンド人間とあつかわれていた私が、

偉大な先輩や著名な方々とご一緒させていただいたり、交友させていただいたり、

1000人規模の大舞台に立ったりなんて、

ABNORMALSに入るまでは想像もしませんでした。

 

加入する前、ABNORMALSに対して持っていた印象は

なんといっても「上手い」ということでした。

歴代のメンバーもすごい人ばかりだし。

いつどこでライブを見ても安定している。

そんなバンドのメンバーになるというのは

少しプレッシャーもあったりしましたが、

本当にいい勉強、修行をさせてもらいました。

 

2枚のアルバム、2枚のオムニバス参加という、

コンスタントなレコーディング経験も初めてであり、

活発、充実の活動を物語っているように感じます。

 

 

そうした活動を支えてくださったのは

音源をお買い上げいただいたり、

ライブを見に来てくださったたくさんの皆様です。

本当にありがとうございます。

皆さんがいてくださることで我々はABNORMALSでいられました。

 

 

コロナ禍を経て、これから音楽の世界がどうなっていくのか、

今後も先の見えない状況が続きます。

そんな中、いったん幕を下ろします。

 

先が見えないとか、所属する場所(バンド)が無いとか。

一聴すると、ネガティブに響くかもしれませんが、

そんなことはありません。

それは自由でもあります。

そんな自由な活動を楽しんでいこうかと思います。

 

ABNORMALSでの感謝と経験と誇りを胸に

今後、どんな活動をしてやろうか。

すごくたのしみで遠大な地平を見ています。

 

2020年8月23日日曜日

修行物

子供のころ、ジャッキーチェンが大ブームとなり、
頻繁にテレビでもジャッキー映画が放送されていた。

たいていジャッキー映画を見た後は
何だか修行したくなり、翌朝早起きして、
公園で砂を入れた袋を引っ張ってみたり、木にキックしたりしたものだ。
友達に見つかって苦笑い、
翌日以降はやめてしまうのが常でしたが。

中でも好きだったのが
なんとか拳の類。例えば酔拳、蛇拳、笑拳とか。
それらの作品は修行シーンが一つの見せ場になっていて、
子供心をわしづかみにされるのだ。


子供心と言いましたが、いまでも修行シーンは大好き。
映画を見ていて、良質な(?)修行シーンに出合うと、
それだけで評価がぐっと上がってしまう。

さて、そんな修行物ですが、
映画だけでなく、小説、文学の世界にもあったりする。
今回はそんな修行物をいくつかご紹介させていただきます。
(以降、敬称略)


まずはこちら。
「宮本武蔵」 吉川英治

修行物の代表格かと思います。
私ももう何度も読んでいます。

武蔵が村の乱暴者から剣豪へ成長し、
巌流島の決戦にいたるまでが描かれています。
剣に賭ける武蔵の純真さは感動的ですらある。

極真空手の大山倍達を題材にした漫画「空手バカ一代」の中で、
若き大山が同書に出合い、空手一筋に生きることを決心したとして描かれています。
この漫画は、今ではフィクションであることが定説になっていますが、
それでも暗闇の中で背筋を伸ばして同書を読む大山倍達を描くコマには、
何か崇高な雰囲気が宿っている。

また、後述する柔道家木村政彦も試合が近づくと士気を高めるために、
同書を読んだと言われています。

これらエピソードからも修行物の金字塔と言えるように思います。


次はこちら。上述の木村政彦にまつわる話。
「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」 増田俊也
  
昭和の巌流島決戦での力道山によるブック破りを軸に、
柔道家 木村政彦の生涯を描くノンフィクション作品。

15年無敗、「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」と言われる
最強の柔道家にして格闘家 木村政彦

戦前の修業時代がすさまじい。
3倍努力という言葉で知られる通り、
他人の3倍は修行を重ね、睡眠は3時間程度、
夢の中ですら柔道をやっていたという。

修行、強さにかける木村の気迫を見ていると、
自分も何かをしなくてはいけない気持ちになってくる。

戦中、戦後からは食べるために生きる木村が描かれ、
「修行物」からは少し離れてくるが、
それはそれですごく面白い。
戦後の興行史や格闘技史が
緻密な情報収集を元にすごく丁寧に描かれている。

戦争で人生の歯車が大きく崩れ、
上述の力道山戦で栄光を奪われる。
以降、苦しみぬいて生きる木村の姿は本当に切ない。
最後に奥さんと散歩中にかわす言葉に涙が止まらなくなる。

扇情的なタイトルで、少し下品な印象を持ってしまうが、
中身はすごく骨太です。

 次はこちら。
「日本の弓術」 オイゲンヘリゲル
戦前、ドイツの哲学者である著者が
日本に赴任した5年間に日本の「道」「術」に触れるべく、
弓術を修行する様子が描かれる。

「術」はスポーツとは異なり、論理的に説明できるようなものではない。
あくまでも稽古、鍛錬の末に体感、会得されていく。

例えば、弓を絞る際、
普通に考えると、背筋、腕力で絞り上げるものと考えてしまうが、
そうではなく、力は使わないとのこと。
実際に弓を引き絞った先生の腕を触れると筋肉は全然張っていないという。

また、暗闇で放った2射が1本目は的中央に、
          2本目は1本目を割く形で射抜かれる。                                   

自分が的と一つになったとき、自然と弦から指が離れ、
矢が的に刺さるのだという。
中島敦の「名人伝」にでも出てきそうな話だ。

そんな不可思議な術に対し、
西洋の哲学者ならでは、
なんとか論理的に解決、会得をしようと苦しむ著者。

だが、徐々に論理を離れ、神髄に近づいていく。
西洋的思考から東洋的思考へ。
いわゆるトレーニング的な修行というよりも、
思考の変更が修行であり、
そこに苦心するドイツ人著者と日本人師匠の心のふれあいも素晴らしい。

 次も「術」にまつわる本
「鉄山に訊け」 黒田鉄山 
「日本の弓術」での人間離れした術に、
これは過去の名人の話であり、
なんなら、すこしは脚色が入っているのかも、
なんていう思いも少しあったのですが、
ある時、YOUTUBEで黒田鉄山氏の演武を見て、
「術」は現代にも残っていることを知りました。
そこで、気になって買ってみたのがこの本。

柔術、剣術についての指南書のような雰囲気もあるため、
それらにまったく縁のない自分にはよくわからない部分も多いのですが、
人間業と思えないような術理が
型一筋に何年も打ち込んできた結果に得られてきたということ、
そこに何かがあるはずだと一途に進んできた信念に心を打たれます。

何かを会得するためには、
ある種の信仰のようなものが必要だと考えています。
そんな思いを改めて抱かされます。

完全に門外漢なのですが、
買ってみてよかったと思えた本です。

ただ、このカバーデザインは何とかならないものか・・・
もっと重厚な方が良いように思うのだが・・・

最後は小説です。
「抗夫」  夏目漱石 

抗夫とは鉱山作業員のことで、
暗い穴の中でひたすらに鉱石を掘り続ける仕事。
それは体力的にも、環境的にも苦しく、死と隣り合わせだ。

良家に育ちながら、
自棄の末、誘われるままに抗夫になることを決めた主人公の青年が、
鉱山への山越えの道、抗夫体験を経ながら、
半ば意地になって抗夫にならんとする話。

「獰猛」と表現される抗夫達の中で、
貧しい食事を食べ、南京虫に苦しめられて夜は布団で寝ることもままならない。
そんな世界の中でも、誇りと知性に輝く抗夫もいる。
それらを読んでいると、自分なりに今までに体験した苦労を思い、
その中で自分はどうあったかを反省させられる。

今まで上げてきた剣や柔術、弓術といった修行とは大きく違うが、
志はともかく、過去に味わったことの無い苦労の連続を重ねながら
少しづつ抗夫に近づいていく様には、
何か刺激されるものがあります。


以上、5冊を挙げさせていただきました。
他にも芸術での修行物、宗教での修行物などもあります。
その辺はまたの機会に紹介させていただきます。
また、冒頭にジャッキー映画を挙げましたが、
映画にもたくさんの修行物があったりします。
こちらもいずれ紹介させていただくかもしれません。

やっぱり修行物はいいです。
心が引き締まります。