2021年5月28日金曜日

はてなの中で

 

昨年末に文庫化された、森達也さんの

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」という本が面白い。

文庫化時にいっき読みして、最近再読した。

 

生粋の文系と自称する著者が、

科学の各分野の最先端の学者にインタビューを行い、

人間が根源的に持ちつつ、回答の得ることのできない、

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」に対して

解を探っていくという内容だ。

 

ゴーギャンの作品名から取られたこのタイトルからすると、

哲学的な硬い本を想像してしまうが、そんなこともない。

軽すぎず、重すぎない文体が読みやすく、

また、文系といいながらも理系知識にも明るい著者は

変に学者さんに置いて行かれてしまうこともなく、

同時に読者も置き去りにしない。

絶妙な難しさ加減で進んでいく。

 

 

森達也さんというと、オウム問題や超常現象など、

ある種、「サブカル」とか「タブー」「オカルト」にくくられそうな分野に

変な先入観を持たずにノンフィクションでまとめていく作家さんと見ている。

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」以外にも1冊読んだことがある。

その名も「オカルト」。

超能力、霊能力などの特殊能力者や超常現象の起こる場所に赴き、

実際に体験しながら、その不思議を探っていく作品。

 

世間にあふれる超常現象は大半が

思い込み、トリック、インチキであるとしながらも、

残りの数パーセントは本当にそういった能力が

存在するとしないことには説明がつかない、として

各種の体験をまとめていく。

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」でも「オカルト」でも

世界にはまだまだ分からないことがたくさんあるということを思い知らされる。

 

我々はついつい、世界は1+1=2の積み重ねであり、

説明の出来ないものは無いかのように考えてしまうが、

そんなことは無く、世界は不思議にあふれているのだ。

というよりも世界の根っこは不思議で出来ていて、

その上の楼閣で人は生きている。

 

Bucket-Tで「天使のうた」という曲を作ったとき、

こんな歌詞を書いた。

「永遠に続くはてなの中で 何を信じ、何を祈る」

自分で書いた歌詞に共感してたら世話無いですが、

まさしく世界はそういうものなのだと思っている。

 

どんなに知識を積んでも、勉強を重ねても疑問符は並び続いていく。

それが世界であり、我々にできることは

その中で何かを信じて、そこに跪きながら生きていくことだけだ。

 

 

「私たちはどこから来て、どこへ行くのか」には

10人の最先端の科学者が出ているが

残念ながら私は大半の方を知らず、著書も数冊しか読んだことがない。

なので、この本を通してそれぞれの思想、研究を知りました。

 

たくさん興味深い話があるのですが、

脳科学者の藤井直敬さんの章での話でこんな話がありました。

 

我々とは何者か、との質問に対し、

藤井さんは世界の一部であると答える。

個は本来存在しないと。

おそらく大半の動物は個を意識せずに生きているという。

 

だが、人はメタ認識の能力により、

外界との相互作用の中で意識が芽生えていく。

言い換えると、外界によって自己が作られていく。

たかだか世界の一部でしかないものが、外界との関係、相互作用によって、

「我々」としての自我を作っていくのだ。

 

SFなんかで悪の親玉として出てきそうな、

培養液のようなものの中に脳だけが浮かんでいるだけみたいな存在、

それでは自己は芽生えないのではないかという。

外界との境界があいまいだからだ。

相互作用が生まれにくい。

 

 

体という「境界」が「環境」と相互作用しながら、

我々は自我を築いてゆく。

 

それは意識して行うことではなく、

ほぼ自動的になされてゆく。

例えば、病気、けが、老化などの身体(境界)変化、

政治情勢、経済状況、自然破壊などの環境変化、

さらには新ウィルスの流行なんかも環境変化といえるだろう。

すべてが個々の自我を作ってゆく。

 

それら変化は一見ネガティブに響くが

どのみち自我に作用するのだから

自己を作り上げていく要素としてポジティブに捉えたいものだ。

 

中国の紀元前300 年ころの思想家であり

道教の始祖の一人でもある荘子の考えに因循主義というのがある。

簡単に言うと自己を捨てて絶対的なものに委ねるというもので、

荘子が書いたとされる本にこんな逸話が残されている。

 

道家思想を持つ人物が謎の病気にかかり、

背中が折れ曲がり、異常な体形になってしまう。

その人物を見舞うと彼は全く落ち込んだ様子もなく、以下のようなことを言う、

「こんな体に変わってしまい、造物者のすることは本当に面白い。

 次はどんな変化が起きるのか楽しみでしょうがない。」

「この世に生まれたのは生まれた機縁を得ただけであり、

 死んでゆくのもその道理にしたがうだけだ。」

 

ちょっと話が大きくなりすぎましたが、

荘子の思想ほどではないにしても、

変化を楽しみながら生きていけるようにありたい。

体も環境も変わっていく。

不安や恐れはつきものだが、そこにこそ成長がある。

 

どうせ世界は不思議で包まれているのだ。

考えてもしょうがない。

GAUZEじゃないが、

「考えてもしょうがないことは東スポの占いで決める」くらいでいいのだろう。




2021年5月6日木曜日

坐る。据わる。

 

GWですね。

コロナ前は連休と言えば、日々の出来事をまとめて

記事にさせていただいたりしたものですが、

今年は緊急事態宣言にて自宅にずっといる日々。

特記事項が少なく、記事になりにくい。

近所の和菓子屋で買い物した話しくらいしかない。


そんなGWですが、

ちょっと思うところがあり、今年は坐禅に時間をかける連休にした。



坐禅を日課にして、そろそろ5年になる。

 

状況にもよるが毎朝20~30分、時間があるときは夜も20分程度、

多いときは朝昼晩、3回各2030分坐る。

 

坐禅について興味を持ったのは大学生のころ。

ありがちな話ですが、インド思想、宗教に興味を持ち、

そこからの流れで坐禅にも興味を持った。

いくつかの坐禅に関する本を読んだりしたものの、

実践には至らなかった。

 

6年ほど前から読書趣味が再燃し、

鈴木大拙、西田幾多郎、オイゲンヘリゲル、

夏目漱石、ジョンケージ、

さらには正法眼蔵や臨済録など、

再び禅に関する本を読み、影響を受け、

坐禅を始めることとなった。

 

坐禅のやり方にはいろいろあるようだ。

宗派によっても異なるし、同宗派でもいろいろなことが言われる。

いわく、「何も考えない」とか「雑念が浮かび上がるままにする」とか

「公案を考え続ける」とか「息を数え続ける」とか。

 

私の考えでは、やり方に正解はなく、

たどり着くところは同じということなのかと思っていて、

基本的に呼吸を数えるところから始め、あとは特に意識をしない。

赴くままに座っている。

 

特に境地のようなものには到底至らないが、

自分の心の動きを冷静に見て取れる癖がついた。

例えば、何かで突発的にイラっとしたとき、

冷静に「今イライラしてるな。原因はあれだな。

自分はこういうことがきらいなんだな」

といった具合に考えられるようになった。

これによってイライラすることが無くなるわけではないが、

変に引きずることは少なくなったように思う。

 

このGWは毎日ではないが、朝1時間の坐禅をしている。 

1時間を蓮華座(結跏趺坐)で過ごすのは結構きつい。

ずっと緩めにインディアンデスロックをかけられているような感じで、

しびれるというより、足が折れそうに痛くなってくる。

 

以前、YOUTUBEで見た坐禅動画(?)で、

足の痛みについて説いていた。

その和尚さんは半日とかの長時間を坐るとのことなので、

私とは比べ物にもならないが、やはりかなりの痛みになるそうで、

そんな時は、このまま足が痛くて死んでしまってもいいや、と思いながら

座り続ける、ということだ。

 

以前参加した坐禅会でも和尚さんが似たことをおっしゃっていた。

私が参加した前日、災害に近いレベルの大風が吹いた。

和尚さんは前日の自身の坐禅経験として、

外を吹き荒れる風を聞きながら、

このまま家が壊れて死んでしまってもいい、と坐ったとのことだった。

 

ものおじしないこと、動じないことを

「肝が据わる」「度胸が据わる」などというが、

この据わるとは坐るからきている言葉なのではなかろうか。

どこかでそんなことを読んだように思う。

上述のお二人のお言葉からも同じことが思い浮かぶ。

 

仏教(禅仏教)は消極的だという批判を聞いたことがある。

確かに、動かず、身をゆだねるという行為は、

消極的な側面もあるかもしれない。

だが、行為を繰り返した先にあるものはその限りではない。

例えば「死んでしまってもいい」という言葉は消極的かもしれないが、

その末に至る人格の成長、変化は積極的なものなのではなかろうか。

 

我々はついつい目先の効果を見てしまうが、

ずっと先に見えてくるものこそが本当の効果だと思う。

 

私はまだまだそんな領域には至れませんが、

足の痛みにそんなことを考えた。