2021年10月26日火曜日

ヤトウムシ

 

2年前に郊外に引っ越してきてから、

家庭菜園的なものをやるようになった。

 

と言っても、本格的なものではなく、

小さい庭の一部を耕して、数種の種を植えている程度のものだ。


収穫に固執することもなく、

種を植え、芽が出て、葉が伸びる。

そんな過程を日々見ているだけでも、

憩いであり、学びがある。

いうなればそれが目的であり、収穫であったりする。

 

もちろん、食べられる程度に採れるとそれはそれでありがたい。

自分で育てて、地元の空気、庭の土で出来た野菜は不思議とおいしい。

だが、たいていはその前に虫に食べられてしまう。

 

本当にいろんな虫が来る。

アブラムシ、エカキ虫、毛虫、芋虫、バッタ・・・

さらには野良猫が糞をして、

それを埋めるために土を掘り返して苗を倒していくこともある。

 

こうして野菜を作ってみるまで知らなかった虫もいる。

ヤトウムシ、ヨトウムシがそうだ。

 

彼らはヨトウガの幼虫で芋虫なのだが、

名前の「夜盗」の通り、昼間は畑の土の中に隠れていて、

夜になると出てきて葉を食べる。

朝起きて畑を見ると、昨日有ったはずの葉、芽が無くなっているのだ。

 

その存在を知った時、面白い習性に感心しつつ、

その習性にたどり着いた進化について考えた。

 

人間の耕作文化とともに進化していったのかと、一瞬考えたが、

そんなわけもあるまい。

おそらく、昼間に葉をついばんでいると、小鳥に狙われるので、

夜中に食べるようになったのではあるまいか。

 

ヤトウムシは鳥や人から隠れて夜に行動する。

でも、鳥と人で大きく立場が違う。

 

鳥はヤトウムシを食べようとしている。

人はヤトウムシと野菜を取り合っている。

ヤトウムシにとって、人はたかだが競争相手。

鳥の方がよっぽど脅威だ。

 

にもかかわらず、ついつい自分たち(人間)に対抗するための進化なのではないか、

などと思いあがったことを考えたりする。

人なんてそんなもんだ。

 

今朝もヤトウムシと競争しながら、そんなことを考えた。

 

 

 

さて、告知です。

 

先日の記事でも書きましたが、

ひさびさにライブをやります。

 

1113日(日) 国分寺モルガーナ

DENY THE END vol.7”


 

同日、新作アルバム、シングルも持参予定です。

よろしくお願いします。




2021年10月7日木曜日

アルバム、シングル発売。そして久々のライブ

 

HPにも記載しておりますが、

ソロとして初のアルバムを発売いたします。

 

過去にライブでも披露している

JOHN FAHEYU.のカバーを含む全7曲。

いずれもベースのみを使い、

オーバーダブ無しの一発録りでまとめています。

 

発売は11月を予定しており、

現在は各種手配などを進めている状況です。

フォーマットはCD、特殊ジャケ仕様になっております。

1300円。





 

同時にCDRでのシングルも発売いたします。

こちらは幾分実験的な曲とMELVINSのカバーの2曲入り。

紙ジャケ仕様、300円。

 

アルバム、シングルとも、

現時点、店頭卸の予定はありません。

ライブ会場もしくはメールオーダーのみになりますので、

気になる方がいらっしゃいましたら、以下までご連絡お願いします。

 

斉藤 新

sleepsleepgotosleep@gmail.com

 

 

そして、久々にライブもあります。

 

1113日(土)

国分寺MORGANA

Guilty Forest presents

DENY THE END vol.7”

 


 

積極的にライブイベント主催を行う、

Guilty Forestの企画。

 

最初にこのライブが予定されたのは年初だったかな。

コロナ影響で延期が2度続き、今回ようやく開催できそうな状況です。


楽しみにしていた企画ですのでうれしい限り。

また、不屈の意思で企画し続けてくれた、

Guilty Forestおよびモルガーナスタッフさんに感謝です。

 

このライブにはアルバム、シングルを持っていけるよう、

引き続き準備を進めます。

 

なお、このあとのライブ予定は白紙です。

いろいろと思うところがあり、

路上ライブをやっていこうかななどと考えています。



さて、

レコーディングしていて、ちょっと考えたことがあります。


ソロの楽曲ではルーパーで作ったバックトラック上に

リード演奏を重ねる場面があります。


そのリード演奏は何度も稽古を重ね、

新しいフレーズを試していく中で徐々に収斂されていき、

自分の好み、曲に求めるものなどを踏まえて

最終的は一定の形になってくる。


そして、それが「正解」として

その曲を弾くときにはいつも同じリードを弾くようになる。


それは当然「正解」と呼んでしかるべきものだと思うし、

だからこそ今回、レコーディングでも「正解」リードを弾いた。

でも本当にこれでいいのかなとふと思った。

無意識的に可能性を拒否してしまっているのではないか。

本当のリードはその場、その時、気分に応じてベストがあって、

それを追い求めるべきなのではないか。


ロック(特にメタル)を聞いて育った身としては

リード演奏というのは一定の形であるべきものだという無意識的な認識がある。

何時聞いても同じフレーズ。

リスナーとしてはそれを聞きたいし、それを待っている。


だが、そういう認識を自分から覆す努力をしないと、

自分のやっていることはいつまでも同じだろう。

もう少し意識的に覆していかなくてはいけないんじゃないか。

そんなことを考えた。


いや、具体的に何をすべきかはわからないし、

考えすぎだとも思うんですけどね。