GWですね。
コロナ前は連休と言えば、日々の出来事をまとめて
記事にさせていただいたりしたものですが、
今年は緊急事態宣言にて自宅にずっといる日々。
特記事項が少なく、記事になりにくい。
近所の和菓子屋で買い物した話しくらいしかない。
そんなGWですが、
ちょっと思うところがあり、今年は坐禅に時間をかける連休にした。
坐禅を日課にして、そろそろ5年になる。
状況にもよるが毎朝20~30分、時間があるときは夜も20分程度、
多いときは朝昼晩、3回各20~30分坐る。
坐禅について興味を持ったのは大学生のころ。
ありがちな話ですが、インド思想、宗教に興味を持ち、
そこからの流れで坐禅にも興味を持った。
いくつかの坐禅に関する本を読んだりしたものの、
実践には至らなかった。
6年ほど前から読書趣味が再燃し、
鈴木大拙、西田幾多郎、オイゲンヘリゲル、
夏目漱石、ジョンケージ、
さらには正法眼蔵や臨済録など、
再び禅に関する本を読み、影響を受け、
坐禅を始めることとなった。
坐禅のやり方にはいろいろあるようだ。
宗派によっても異なるし、同宗派でもいろいろなことが言われる。
いわく、「何も考えない」とか「雑念が浮かび上がるままにする」とか
「公案を考え続ける」とか「息を数え続ける」とか。
私の考えでは、やり方に正解はなく、
たどり着くところは同じということなのかと思っていて、
基本的に呼吸を数えるところから始め、あとは特に意識をしない。
赴くままに座っている。
特に境地のようなものには到底至らないが、
自分の心の動きを冷静に見て取れる癖がついた。
例えば、何かで突発的にイラっとしたとき、
冷静に「今イライラしてるな。原因はあれだな。
自分はこういうことがきらいなんだな」
といった具合に考えられるようになった。
これによってイライラすることが無くなるわけではないが、
変に引きずることは少なくなったように思う。
1時間を蓮華座(結跏趺坐)で過ごすのは結構きつい。
ずっと緩めにインディアンデスロックをかけられているような感じで、
しびれるというより、足が折れそうに痛くなってくる。
以前、YOUTUBEで見た坐禅動画(?)で、
足の痛みについて説いていた。
その和尚さんは半日とかの長時間を坐るとのことなので、
私とは比べ物にもならないが、やはりかなりの痛みになるそうで、
そんな時は、このまま足が痛くて死んでしまってもいいや、と思いながら
座り続ける、ということだ。
以前参加した坐禅会でも和尚さんが似たことをおっしゃっていた。
私が参加した前日、災害に近いレベルの大風が吹いた。
和尚さんは前日の自身の坐禅経験として、
外を吹き荒れる風を聞きながら、
このまま家が壊れて死んでしまってもいい、と坐ったとのことだった。
ものおじしないこと、動じないことを
「肝が据わる」「度胸が据わる」などというが、
この据わるとは坐るからきている言葉なのではなかろうか。
どこかでそんなことを読んだように思う。
上述のお二人のお言葉からも同じことが思い浮かぶ。
仏教(禅仏教)は消極的だという批判を聞いたことがある。
確かに、動かず、身をゆだねるという行為は、
消極的な側面もあるかもしれない。
だが、行為を繰り返した先にあるものはその限りではない。
例えば「死んでしまってもいい」という言葉は消極的かもしれないが、
その末に至る人格の成長、変化は積極的なものなのではなかろうか。
我々はついつい目先の効果を見てしまうが、
ずっと先に見えてくるものこそが本当の効果だと思う。
私はまだまだそんな領域には至れませんが、
足の痛みにそんなことを考えた。
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