最近、妻が子供向けの絵の先生を始めた。
昨年まで働いていた学童保育の中で、
子供たちに絵を教えてきていて、
退職後、お母さん方に請われる形で絵の先生として復活した感じだ。
2週に一度くらいのペースで地元の市民会館で子供たちと一緒に絵を描く。
帰宅後、子供が書いた絵を見せてもらったりもするのだが、
これがすごい作品だったりする。
もちろん技術はつたない。
デッサンとかクロッキーとか骨格とか・・
そんな言葉を持ち出したらお話にもならない。
だが、そんな言葉では語れない魅力にあふれているのだ。
以前、姪の書いた絵にも同様に感動したことがあった。
子供たちは技術ではなく、
見えたまま、思うままに絵筆をふるう。
大人になるにつれ、そして「絵画」について知識が深くなるにつれ、
それっぽいものは簡単に書けるようになるが、
逆に言うと「それっぽいもの」ばかりを書くようになっていく。
これは音楽も同様だ。
子供のころは思うままに口ずさんだり、
手を叩いてリズムを作ったりしていたが、
音楽の先生に諭されたり、音楽理論を身に着けていく中で、
徐々に自由は失われていく。
だって大多数が認める「答え」がある世界になっていくわけですから。
答えを追い求め、答えしか弾かなくなっていくのは必然だろう。
そんな不自由をなんとか打破できないものか。
知識を蓄えてしまった以上、もう子供の心には戻れないのか。
マタイの福音書のとおり
「幼子に戻らなければ天国に入ることはできない」ということなのかな。
演奏に自由を求めるたびに、そんな思いに苦しんでいたりする。
以前参加したフリーインプロのオープンマイクで、
ある大御所ギタリストの方が
○○っぽい(例えばJAZZぽい、ROCKっぽい)ものを弾くと
場を制限してしまうから控えた方がいい、といった旨をおっしゃていました。
実際、フリーインプロの場で共奏者が○○っぽいプレイを入れてくると、
ちょっと意識してしまったりする。
私もフリーインプロの場ではできるだけ
○○っぽいものを弾かないようにしていますが、
ちょっとまてよ。それはそれで縛りなのでは?
ご見解に賛成しつつも少し腑に落ちない自分がいました。
日本フリージャズ、フリーインプロの第一世代と言われる巨人の中で、
井野信義さんというベーシストがいらっしゃいます。
私は井野さんのファンでして、
よくライブにうかがわせていただいています。
井野さんはフリー演奏中、
時折、身にしみ込んでいらっしゃるであろう、
4ビートのウォーキングベース的なものを弾かれたりする。
これは「○○っぽい」に属する行為ですが、氏の演奏には自由を感じる。
これはどういうことなのか。
きっと井野さんにしみついた演奏が
意図なく流れ出しているからなのだろう。
「ここでちょっとJAZZっぽい雰囲気でもいれてみるか」
で弾いているのではなく、
無心で演奏する中で無意識に漏れ出ている。
子供が音や絵を楽しむように。
知識を持ってしまった末でも
自由になるための手がかりがここにあるように感じます。
どうすればその境地に行けるのか。
実は答えはわかっているんです。
毎度こういう話になるとこの答に行きつきます。
「とにかく続けていく。」
身につけてきた知識も、ずっと続けていく中で
いつか何も考えずに
自由を演奏できるようになれるのだと思う。
「知識」ではなく「血肉」とする。
そのためにはとにかく演奏し続けるしかないだろう。
さて、告知です。
7月は2本のライブがございます。
w/
BOOTCAMP (U.S)
sift
start 19:00
1500yen +1d
アイオワからいらっしゃるBOOTCAMPの日本ツアー、
秩父場所のサポートとなります。
そしてその後はこちら。
7月20日(日)
URON ALPHA #9
京王堀之内timetokyo
w/
ANANAS
TECHNOCRACY
QUILL
THE EARTH TEMPLE
GRIND SHAFT
Communicates
xonto
YOUNG FOREVER
don horror
open 12:50
start 13:10
900yen +1D
2回目の参加です。
宜しくお願いします!