2021年3月28日日曜日

即興演奏について その2

 

前回記事で

即興は演奏と身体表現が同時に無意識的に行われる、

総合的な表現であると書いた。

 

「過度な表現」とか「受け狙い」という場合についても触れましたが、

身体表現というのはそういった大味なものに限らない。

演奏している姿を見せること自体が身体表現であり、

棒立ちで演奏していようが、のたうち回って演奏していようが

両方とも「身体表現」だ。

 

自身にとって無理のない身体表現、

それがある種「演劇」の範疇に近づくほど激しい人が

即興演奏を行うならば、その時には激しく全身を使っての表現となるだろう。

逆に言うとそこまで到達できない状態で、

それっぽいことを狙っても芝居じみた即興演奏にしかならない。

 

自分には激しい身体表現は身についていない。

というかあまりそういうことを目指さずにここまで来た。

残念ながら、求めるような身体表現はできない。

だから納得のいく即興演奏ができないのかというと、

そういうわけでもない。

 

必ずしも激しい身体表現が必須なわけでもないからだ。

上述の通り、棒立ちでも即興と呼べるものはできるはずだ。

実際、座ったままですごい即興を行う人もいる。

 

結局自分にできないのは、身体表現ではなく、

単純に無意識になることなのだろう。

だが、同時に「動き」が無い(少ない)中では無意識になりにくいのも事実。

ただでさえ無意識になれない中、「動き」を援用することもできない。

結果、納得のいく即興演奏に達しない。

うーむ。苦しい。

 

 

いろいろと思い悩む中で

別の形での即興可能性を考えるようになった。

 

即興演奏には「偶然」を利用するという手法がある。

演奏に偶然要素を盛り込み、即興にならざるを得ない状況を作るのだ。

 

ソロではなくバンドで即興をやるならば、

この「偶然」はメンバーによってもたらされる。


自分の想定していない音、リズムが

自分以外の「偶然」として聞こえてくるからだ。

実際、私も過去の在籍バンドでは

たいてい即興ジャムをスタジオでやったりしていた。

ジャムセッションは時に思いもよらない演奏を生む。

即興が作曲の第一歩だといわれたりするのもうなずける。

 

だが、ソロだと他人には頼れない。

そこで、別の形で自分の意思以外の物を盛り込む必要がある。

 

例えばプリペアードピアノ。

ピアノの中にいろいろな異物をおくことで

演者が弾いた鍵盤が本来と違う音になるよう操作する。

演者は思うように鳴らないピアノを弾くことで、

偶然に巻き込まれ、その中で無意識的なフレーズを作ることになる。

 

自分で予想のつかない音が出るエフェクターや機器を用い、

自身の即興演奏に刺激を与え、そこから更なる即興を広げるとかも

同じような手法かと思う。

ノイズアーティストの方々が採っている即興手法は

こういう部分もあるのかもしれない。

 

ここから発展させて、自分でもやれそうな即興手法にたどり着いた。(気がする)

それは「ズレ」「モアレ」を利用する手法だ。

 

私のソロ演奏ではディレイ、ルーパーを用いてフレーズを反復させ、

それをバックトラックとして音を重ねていくことを基軸にしているが、

この反復タイミングを少しだけずらすと、

ズレは徐々に大きくなり、モアレを生む。

そしてリズム、ハーモニーの崩れた、予期せぬ状況に至る。

その中で演奏することで、無意識とはいかないまでも、

自分の意思通りのフレージングができない状態に追い込む。

そんな手法を考えた。

いうなれば初期スティーブライヒ音楽の中で即興ソロを弾くような感じだ。

 

最近、この手法での稽古を続けている。

自分で評価することは難しいが、

少なくとも意思をはぐらかされながらの演奏にはなっている。(気がする)

 

さらに研究を続けて、いつか納得できた時には

ライブでもお披露目できれば、と思っています。

いつになるやら、ですが。

 

 

とはいえ、これは「手法」に頼った即興演奏。

求める境地は何もないところから始め、

何にもとらわれない演奏を行うことだ。

そして、そういう即興演奏をこそ聴きたいし、見たい。

 

それはひょっとすると禅問答のようなものかもしれない。

会話がなされていながらも論理では中身が捉えられない禅問答。


同様に、演奏はなされているが、

理論では内容把握できないものこそが「即興演奏」なのではないだろうか。


そこまで行くと、音を聴いているのではなく、

その「人」を聴いているのだろう。

それこそが理想形のように思う。




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