2022年7月11日月曜日

先週末、ライブを見て思ったこと

 

以前に少し書きましたが、

高校生の頃に音楽に目覚め、

ハードコアパンクに出会った。

 

具体的にはDISCHARGEWHYというアルバムとの出会い。

荒々しくやかましい音楽とまがまがしいアートワーク、

怒っているかのようなボーカルスタイルに圧倒され、

最初の印象は「怖い」だった。

だが、歌詞を読みながら何度も聴くうちに、

メッセージ、芯の強さゆえの怖さなんだと知った。

生々しいものは何だって怖さを伴うものだろう。

 

その後、いろんな「ハードコア」を聴いてきた。

「ハードコア」という言葉は音楽のジャンルを指すものではなく、

プログレッシブとかオルタナティブと同様、

考え方や姿勢を指すものだと思っている。

なので、それっぽい音であれば、だれもが俺はハードコアだ、

俺のやっている音楽はハードコアだ、ということができる、

なんとも便利な言葉でもある。

本物も偽物もハードコアと称し、称される。

 

今までいろんな音楽、バンドをやってきましたが、

自分から自分のやっている音楽をハードコアと形容したことは無い。

ハードコアへの憧憬ゆえに、恐れ多くて言えないのだ。

私の信じる「ハードコア」を自分がやれているとは思えない。

 

 

先週末、久々に九狼吽のライブを見てきた。

九狼吽の新曲群がすごい。

1曲オフィシャルでYOUTUBEにあがっている。



 

彼らは胸を張って自分たちはハードコアだと言う。

全く異論がない。

 

芯の通った彼らの姿勢、活動に頭が下がる。

と言っても、内面ばかりではない。

曲も演奏もライブの進め方もすべてが一流なのだ。

だからこそ姿勢にも重みが出るのだろう。

 

いや、それはきっと自然と両立されるものなのだと思う。

内面が徹底していれば、当然外面も徹底されてくる。

逆にいい加減にやっていれば、いい加減なステージになる。

そんな自称ハードコアはライブを見れば、中身が透けて見えてくる。

どんなにそれっぽく着飾って、力こぶを誇示していててもスカスカだ。

 

先述の通り、私のやっている(やってきた)音楽はハードコアではない。

でも「ハードコア」でありたいとは思い続けている。

自分を整え、自分で考え、自分で決める。

そうありたい。




 

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