以前に少し書きましたが、
高校生の頃に音楽に目覚め、
ハードコアパンクに出会った。
具体的にはDISCHARGEのWHYというアルバムとの出会い。
荒々しくやかましい音楽とまがまがしいアートワーク、
怒っているかのようなボーカルスタイルに圧倒され、
最初の印象は「怖い」だった。
だが、歌詞を読みながら何度も聴くうちに、
メッセージ、芯の強さゆえの怖さなんだと知った。
生々しいものは何だって怖さを伴うものだろう。
その後、いろんな「ハードコア」を聴いてきた。
「ハードコア」という言葉は音楽のジャンルを指すものではなく、
プログレッシブとかオルタナティブと同様、
考え方や姿勢を指すものだと思っている。
なので、それっぽい音であれば、だれもが俺はハードコアだ、
俺のやっている音楽はハードコアだ、ということができる、
なんとも便利な言葉でもある。
本物も偽物もハードコアと称し、称される。
今までいろんな音楽、バンドをやってきましたが、
自分から自分のやっている音楽をハードコアと形容したことは無い。
ハードコアへの憧憬ゆえに、恐れ多くて言えないのだ。
私の信じる「ハードコア」を自分がやれているとは思えない。
先週末、久々に九狼吽のライブを見てきた。
九狼吽の新曲群がすごい。
1曲オフィシャルでYOUTUBEにあがっている。
彼らは胸を張って自分たちはハードコアだと言う。
全く異論がない。
芯の通った彼らの姿勢、活動に頭が下がる。
と言っても、内面ばかりではない。
曲も演奏もライブの進め方もすべてが一流なのだ。
だからこそ姿勢にも重みが出るのだろう。
いや、それはきっと自然と両立されるものなのだと思う。
内面が徹底していれば、当然外面も徹底されてくる。
逆にいい加減にやっていれば、いい加減なステージになる。
そんな自称ハードコアはライブを見れば、中身が透けて見えてくる。
どんなにそれっぽく着飾って、力こぶを誇示していててもスカスカだ。
先述の通り、私のやっている(やってきた)音楽はハードコアではない。
でも「ハードコア」でありたいとは思い続けている。
自分を整え、自分で考え、自分で決める。
そうありたい。
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