2024年9月20日金曜日

自信と慢心

 

今回の記事は

最近になって、ようやく自分の中で整理出来てきた話です。

備忘、自戒のために記事にさせていただきます。

 

 

以前書いたかと思いますが、

今年は介護施設の慰問演奏などおこなっております。

いや、正確には「おこなっていた」です。

ある事件があって、自分を見直す必要を感じ、今はやめてます。

 

慰問演奏を行おうと思った経緯は

「自分の音楽は複雑ではあるが、ある程度の普遍性をもっているはずだ。

それを確認したい」という思いから、

ふだん音楽を聴かない(少なくともロックは聴かない)であろう、

ご年配の皆様の前での演奏に挑戦してみたく思った次第です。

 

最初に慰問演奏をしたのは3月でした。


全く顔も知らないご年配の皆様30人ほどのまえで演奏。

なかなかに緊張します。

ですが、ありがたいことに好評をいただき、

施設の方からも、また来てほしいとのお言葉をいただきました。

 

もちろん、お聴きの皆さんが知っている曲は一つもありません。

そんな中で受け入れられたのは本当にうれしかったです。

 

 

 

その後、6月に再演奏のお話をいただきました。

 

2回目ということもあり、少しリラックスして臨めましたが、

・・・まったく受けませんでした。

 

演奏を続ける中で

聴衆の皆さんの気持ちが離れていくのが手に取るように感じられ、

どんな曲をやっても、こっちに引っ張れない。

もうどうにもならなくて、途中で放棄して帰りたくなるくらい。

ここまでの気持ちは過去の音楽歴の中でも味わったことがないレベルでした。

皆さん、静かに聴いていらっしゃるが、ぜんぜん響かない。

 

演奏におかしな間違いはありませんでした。

音響にも変なところはなかったはずです。

でも1回目とは全然違う。

なにがよくなかったのか・・・

 

 

 

その後、反省を重ねていく中で気づきました。

私は”自信”というものを取り違えていたのだと思います。

 

2回目の演奏に赴くにあたり、

1回目の成功があったので無意識で慢心していました。

お話をいただいた時点で、

すごくいやな言い方をすると
「そうですか、また聴きたいですか。いいですよ。やってあげますよ」的な。

(もちろんこんな風に思ってはいませんが。)

 

1回目の結果に対し、自信を持つべき点は、

最初に自分が考えていた

「普遍性をもっているはずだ」という考えが確認できたことに対してであり、

「受けた」ことではない。

 

“自信”とは自分の中に見出すものであり、

他所の評価に対して持つ“自信”というのは、不完全で危ういものだ。

だって「自」じゃなくて「他」発信なんだから。

「他」によってもたらされた「自信」っぽいものは

どこかで”おごり””慢心“にすり替わってしまう。

 

 

先述の通り、聴衆であるご年配の皆さんは

私の曲を全く知らない。

だからこそ、こうした機微は明らかに伝わってしまう。

「いい曲かもしれないけど、なんか楽しくない」といった感じに。

 

これはレコーディングには表れないだろう。

でも、現場ではしっかりと見えてしまう。

そして聴き手の心に伝わる。

 

 

故黒田鉄山先生という武術家がいます。

黒田先生の抜刀は目に見えない速さです。


 

演武をなさるとき、

黒田先生はどういう心境で臨むのかインタビューに答えています。

 

この術を残してくれた先祖、自分に伝えてくれた祖父、両親に感謝を持ち、

どうかうまく刀が抜けてくれますように見守りください、と
祈願しながら臨むとのことです。

 

全く境地が違う。

でも、高い境地ゆえの難しい理念や複雑な思想があるわけではなく、

そこにあるのは謙虚、感謝という当たり前なことだ。

 

何に臨むにしても、この気持ちを忘れないようにしなければいけないな。

改めて思いました。



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さて、気持ちを切り替えて告知です。

 前回記事で書きました通り、

11月にのうてんふぁいらの第2回をやらせていただきます。



前回同様、音楽、絵、おいしいもので
居心地のいい空間を作ります。

ぜひお越しくださいませ。


あまりぎゅうぎゅうで見ていただくもの好きじゃないので

完全予約制になっています。

予約は下記メールにてお願いします。

sleepsleepgotosleep@gmail.com

斉藤 新


よろしくお願いします!



 

 

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