いよいよ今年も残すところひと月ちょっととなり、
年末の色合いが強くなってきた。
そんな昨日、喪中はがきが届いた。
差出人は子供のころの友達の奥様。
混乱とともに内容を確認し、友達の死を知りました。
悲しいことに小学1~3年生の頃の親友がなくなってしまった。
私は父の仕事の都合で引っ越しの多い子供時代を過ごしました。
東京の練馬で生まれ、小学校に入るタイミングで愛知の田舎に移住し、
そのまま3年生の夏休みまで名古屋で過ごしました。
その時の親友が亡くなってしまいました。
私と同い年なので享年49歳。早すぎる。
小学生低学年のころの親友というのは
その後の友人と比べて密なものではないでしょうか。
私たちはほぼ毎日一緒に遊んでいました。
学校でも一緒、放課後は
山や森、田んぼで一緒にカエルや虫を追い回して遊んだ。
近所に通称“二つ池”という、
直径100mほどの池が隣接している場所があり、
そこによく遊びに行った。
水深が浅く、池というより沼といった感じのどんよりした場所だ。
子供というのはおかしなことを考え付くもので、
2人で池を横切って向こう岸まで歩こうとしたことがある。
池の真ん中くらいまで足がついていたが、
だんだんと深くなっていき、ゴム草履を履いた足が泥にとられる。
恐怖とともにあきらめて戻りましたが、
今思えば、命に係わる事故が起きても不思議じゃない。
無茶なことをしたものです。
3年生のときに東京に引っ越すこととなり、別れることになった。
引っ越しが決まったときは大泣きして親を困らせた記憶がある。
その後は年賀状を主とした文通でつながりつづけた。
5年生のころにお互いの家(愛知と東京)に泊まりにいったことがあったが、
会ったのはそれが最後。
でも、その後も年賀状のやり取りはずっと続いた。
年賀状がすたれて行ったり、年齢とともに筆不精になったりしても
彼との年賀状だけは続いた。
年賀状を通して、お互いの結婚、彼がお子さんに恵まれたこと、
家業を継いでいることなど、近況を交換し合い、
常々最後の文章は「またいつか会おう」だった。
残念ながら会えずに終わってしまった。
仕事でもバンドでも何度も愛知に行っていたのに。
一度開いた距離を詰めることが面倒でもあり、
「また今度」で済ませてきてしまった。
今は強烈な後悔と喪失感を感じています。
先月にはBucket-T時代から仲良くしていただいた
先輩ベーシストの急逝がありました。
尊敬するミュージシャンであり、面白い兄貴であり、
ご自身が音楽活動をなさっていない時期でも、
なんだかんだで私の活動を見続けてくださった理解者でもあった。
続く訃報に、久しぶりに死別のつらさを噛みしめています。
なんで人は死んでしまうのだろう。
何で人生にはこんな悲しいことが約束されているのだろう、と
青臭い思いに取りつかれながら。
年齢とともに、こうした機会は増えていく。
そのたびに自分の歴史の共有者も失われていく。
死別の苦しさにはそういった意味もあるのかもしれない。
もう、二つ池を踏破しようとしたことや、
高円寺の飲み屋でのバカ話の共有者はいない。
私だけの歴史になってしまった。
月並みな言葉かと思いますが、
残されたものは故人の冥福を祈りつつ、
思い出を、失われた歴史を何らかの形で昇華していくべきだ。
そんな風に思う。
せっかく音楽という表現行為に恵まれているのだから、
友達や先輩からいただいた経験を落とし込み、
そこに思いを残していきたい。
そんなわけでとん挫してきた
アルバム作成に改めて取り組むことにしました。
勝手なことを言ってゴメンだけど、
2人とも天国で見ててください。
いつか感想を聞かせてください。




