2019年5月19日日曜日

道のりに胸を張れ

「何かになりたい」とか「何かを成したい」っていうのは
普遍的な希望のように思う。
誰しも、大なり小なりそんな願望を持って生きているだろう。
何かを作るとき、
良い作品を作りたいっていうのもそんな願望の一種だろう。
例えば自分も良い曲を作りたいと常々思っている。


禅の考え方に「質問を発するとき、答えは質問者の中にある」というものがある。
例えば「生きる」とは何なのかと問うとき、
質問者はすでに生きており、答えを持っているということになる。


上述の願望にこの考えを当てはめてみる。


例えば「良い曲を作りたい」と思うとき、
すでに「良い曲」の概念、イメージは願望者の中にあるはずである。
逆に言うと、その概念、イメージが無い中での願望は
漠然とした願望、絵空事ということになってしまう。
つまり、何かになりたいと思うとき、
その答えは自分にあり、自分から導かれるはずのものなのだろう。
ではどうやって自分の中に答えを育てるか。
それを考えるに当たり、前回書いた森有正の「経験、変貌」を思う。


自分を育てるのは経験だ。
だが経験とは事件の羅列ではなく、
積み重なる日常であり、それこそが経験だ。


ベルクソンは時間を空間的なものではなく、持続するものだと考える。
我々は通例的に時間というものを
現在を中心に過去、未来に伸びる線のようなものとして捉え、
時間座標のなかで出来事が積み重なり、
それを時間、歴史と考えてしまう。
だが本来、時間、歴史はそんなものではなく、1つの持続であると考える。


経験というのも年表の上にポイントポイントで置かれていく事件群ではなく、
持続として一個のものだ。
森有正の経験論を私はこのように捉えている。


華々しいことや自慢できるようなこと、自分を揺るがした大事件ばかりではなく
どんなに些細なことでも、つまらないこと、
他人に話せるようなことじゃないとしても、
全ては持続であり、経験だ。
それが自分を育て、何かに臨むときの指針を作り出す。


自分の過去や現状を卑下していては指針はゆがんでいく。
簡単なことではないが、今までの道のりに胸を張って生きていくのだ。


小林秀雄は言っている。
「大切なのは目的地ではない、現に歩いているその歩き方である。」


打算や計算づくで歩くのではなく、
歩き方を整える。これに尽きるのだと思う。


歩き続けたその先で、
ふと自分がなりたかった何かになっている自分に気付けるのかもしれない。



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