先日、湯治に行ってきた記事を書きました。
湯治中、数冊の本を読んだ。
その中に三木清の「語られざる哲学」という本がある。
中村橋の古本屋で見つけた一冊。
哲学には人に語られるもののほかに自身の中にしかない
懺悔ともいうべき語られざる哲学というものがある、として
自身の青春時代の内省を描いている。
その真摯な姿勢、
自身を掘り下げていく苦闘の様子に心を打たれた。
日本の哲学者といえば、
西田幾多郎を挙げる人が多いと思う。
私にとって国内外含め、一番好きな哲学者だ。
もう一人上げるとなると三木清を挙げる人が多いんじゃないかと思う。
三木清は西田幾多郎に師事していたこともあり、
なんとなくナンバー2感がある。
だからというのでもないが、あまり深く読めていなかったように思う。
そんな自分を反省した。
湯治から戻ってから、
ほかの作品「人生論ノート」「哲学ノート」を再読した。
以前読んだときは読み切れていなかった面白さに気づく。
そして反省がさらに深まる。
森有正は一つ一つの言葉をじっくりと掘り下げ、
経験として意味をつかむことを説いている。
まさしくそんな姿勢ともいうべき、三木清の深考。
「成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、
人間は真の幸福がなんであるかを理解し得なくなった。
自分の不幸を不成功と考えている人間こそ、まことに憐れむべきである」
--成功について--
「幸福は表現的なものである。
鳥の歌うがごとくおのずから外に現れて
他の人を幸福にするものが真の幸福である」
--幸福について--
「すべての人間が利己的であるということを前提にした社会契約説は、
想像力のない合理主義の産物である。社会の基礎は契約でなくて期待である。
社会は期待の魔術的な拘束力の上に建てられた建物である」
--利己主義について--
「嫉妬は嫉妬されるものの位置に自分を高めようとすることなく、
むしろ彼を自分の位置に低めようとするのが普通である。(中略)
その点、愛がその本性において常に高いものに憧れるのと異なっている。
嫉妬は愛と相反する性質のものとして、絶えずその中に干渉してくるのである」
--嫉妬について--
いくつか挙げさせていただいたが、
その思想にはどこか日本的、東洋的なものも感じられ、
心を打つ。
「kotoba」という季刊誌で以前に「孤独」についての特集があった。
いろいろな作家、文化人の言葉から孤独の意味をさぐる、といった内容。
その中で三木清も挙げられていた。
終戦直前、治安維持法で逮捕された三木清は
独房の個室でベッドから落ちて死んでいるのを発見される。
生前、孤独についても思索を残した三木清は獄中で何を思ったのだろう。
「孤独は山になく、街にある。
一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にあるのである。」
パスカルを敬愛した三木清はパンセを読み、
一人涙することもあったという。
私にとっては三木清の残した言葉はパスカルよりも
ぐさりと刺さる。
(敬称略)