2019年12月14日土曜日

一指拳の極意


小学生のころ好きだった漫画に
鉄拳チンミというのがある。

舞台は中国(っぽいところ)、拳法の習得を目指すチンミ少年が、
いろいろな事件や人物に出合う中で、技を磨き、成長していくという話。

漫画ならではの多種の謎拳法が出てくるが、
そんな中に「一指拳」というのがある。
これは相手の攻撃の瞬間に合わせて、
一本の指で相手を押し、相手のバランスを崩すことで自滅させるという
合気道のような技。

なぜ一本指なのかはよくわからないが、
指だけで相手を吹っ飛ばすというところにインパクトがある。

一本指で相手のどこを押すか。
それを知るには相手の動きと一体になる必要がある。
この技の極意として、
掌に小鳥を乗せ、飛び立とうとする瞬間に掌を下げ、
飛び立つ足場をなくすことで飛ばせないようにするという修行法が出てくる。
小鳥と一体になり、動きをつかむのだ。

これを習得すべく、チンミは不眠断食の行で意識を研ぎ澄まそうとする。
だが、一向に習得できず、むしろ体が弱り、集中力が落ちる始末。
そこに師匠が教えるのは
「無心」になり、小鳥の動きを見るのではなく、感じ取るというもの。
ブルースリーの”Dont think.Feel.”に近い感じだろうか。

チンミはこれにより極意を習得し、
最終的には村を襲う狂暴なグリズリーを一本指で吹っ飛ばす。
いくらなんでも上達しすぎかと思うが。

男の子たるもの、修行シーンを見れば憧れて真似したくなるものだ。
ご多分に漏れず、小学生の私もハートをつかまれ、
「無心」の極意に挑戦したが、
その不可能に気づき、「無心」というものの意味がわからなくなった。

というのも、「無心」になろうとするとき、そこには「無心」を目指す意識があり、
この時点ですでに「無心」ではない。
無心になろうとする限り、無心になれないのだ。
つまり、意気込んだ時点で「無心」は遠ざかる。


そもそも「無心」とはなんだろうか。
西田幾多郎の「善の研究」に純粋経験という言葉が出てくる。
言葉になる前の知覚、経験のようなものを純粋経験と呼び、
生死を賭した山登りで思考なく足場を選んだり、
音楽家が体に染みついた演奏を行う際に
指が勝手に動くような場面を例示している。

確かデカルトの言葉だったか、
人は同時に二つのことを思考することができないとあったかと思う。
上記の純粋経験の瞬間、同時に多数のことを処理、実行している。
これは思考ではなく無思考、無意識での作業だ。

もっと身近な例を挙げれば、歩くとか食べるとかいったごくごく普通の行為も
同時進行で数えきれないほどの行為が同時進行している。

中国のことわざで、ムカデが自分の足の動きを意識した途端、
動けなくなってしまったというものがあるが、
同時進行している無意識群は意識では精査できない膨大なものだ。
こういった行為群が「無心」というものなのかもしれない。

禅では「無心」になることを一つの指針にしている。
禅は知るものではなく、体験するものだという。
ここには言葉にした時点で無心から遠ざかるという意味もあるのかもしれない。

また、禅は普段の生活の中にあるという。
これも「無心」が無意識の何気ない行動のなかにあることを
示唆しているのだろう。

純粋経験の瞬間、意識は不在であり、
忘我の行動となっている。
これは気持ちのいいもの(快感につながるもの)だと思っている。
というよりも「意識」を持ち続けるということがしんどいものであり、
その逆説といったほうがいいかもしれない。

なにかに没頭したり、没入するのは、
意識的な意識の喪失であり、そこに快感と幸せを感じる。
創作、仕事、演奏のように能動的な場合も、
ライブ、コンサート、展示、映画のように受け身の場合でも、
没入、ひいては「無心」は気持ちのいいものだ。
・・・こうして考えている時点で無心からはどんどん遠ざかるんですけどね。

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さて告知です。



 MAD3のレコ発でABNORMALS出演させていただきます。

もう明後日の話です。

今年のライブはこれで最後です。
乾杯いたしましょう!











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