2022年7月20日水曜日

ライブ日記

 

またコロナが増えてきています。

相変わらずいろんな声が聞こえてくるわけですが、

その中でやれることと言えば、

手洗いとかマスクとか基本的なことに注意していくしかありませんね。

 

現時点では行動制限の話なども出ておらず、

だからというわけでもないのですが、

先月末から3本ほどライブを見に行っている。

こうしてライブが増えてきて、うれしい限りだ。

 

 

先月末の626日は近所(と言っても車で30分くらいだが。)の

古道具屋で行われた、JAZZ、現代音楽系のイベントに行ってきた。

演者さんのことは全く知らなかったのだが、

雰囲気の良い古道具屋さんでしたので、

そこで開かれる音楽会というものに興味がわいた次第。

 

ギターソロ、ピアノ+アコーディオンのユニット演奏に続いて、

最後はベース奏者も交えて4人での演奏となる進行。

 

曲が少し冗長に感じてしまう部分もありましたが、

ピアノさんがすごく好みで、氏が作曲したと思われる曲がすごくよかった。

また、JAZZ的に順番にソロを弾く場面でも氏のソロはすごく好みでした。

こうして新たな出会いに恵まれると本当にうれしい。

 

アコーディオン奏者は奥様で、

お二人でTHE SLEEPING BEAUTYというユニットをやっておられるとのことで、

そのCDを買わせていただく。

 

この日のライブで考えさせられることがあった。

 

ライブと同時開催で写真展も併設されていた。

私は写真について云々する知識、経験はありませんので、

作品については言及しませんが、

ライブの中盤で写真家さんがステージに上がり、ご自身の写真展の説明、

込めた思いなどをご高説。

・・・うーん。

 

こういう説明をしたい気持ちもわかりますが

くどいし無粋だ。

そもそも、こっちはライブを見に来てるわけだし。

音楽演奏のステージなんだし。

 

伊福部昭さんは音楽の曲名に具体的な名前が付くことに対して疑問を掲げている。

本来、音だけで表現されるべきであり、

受け手(聴き手)のイメージを限定するような

「言葉」を付与するべきではないとのお考えだ。

 

作品タイトルであってもこういった徹底的な考え方もある中、

作品の説明をわざわざするというのは蛇足がひどい。

 

厳しい書き方かもしれませんが、

写真だけで伝えられてこそ写真家なんじゃないだろうか。

それが無理で、言葉での補足が必須なのであれば、

いっそ映像、本など別の表現手段に切り替えた方がいいんじゃないだろうか。

 

受け手の感受を無視するな。

意思を押し付けるな。

そんな思いにさせられた。

 

 

さて、先々週末(79日)は前回記事で書いた通り、

東高円寺で九狼吽。

 

その後、新曲群の入ったスプリットCDは、

誇張じゃなく、20回以上聴いている。

本当に素晴らしい。

 

 

そして、先週末(716日)は入谷でライブを見てきました。

TRY ANGLEと銘打って、

ベースの井野信義さん、ドラムの山崎比呂氏さん、

サックスの松丸契さんの3人によるフリーインプロヴィゼーション。

 

井野さん、山崎さんは高柳昌行ニューディレクションユニットの

メンバーでもあった重鎮であり、

御年は72歳と82歳。

 

ライブ、素晴らしかったです。

というか、打ちのめされました。

ステージに上がり、誰からともなく音が鳴りだすと、

各人が反応を繰り返しながら、音を相乗していく。

 

ついベーシストの井野さんに注目してしまう。

目をつぶりながら、ベースと体を一体化させて演奏を続けていく姿に、

自分のレベルとの大きな差を感じ、

感動とは別の方向でも涙が出そうにもなってくる。

自分はあまりにも未熟だ。

 

 

以前、ツイッターをやっていたころ、

自然の中で聴こえる音(川、風の音、鳥、カエル、虫の声など)は

どんなに鳴り響いても不思議とうるさく感じない。

少なくとも苛立ちを感じるような

やかましさを感じないとの旨を書いた。

 

それらの音にはどこにも作為、作意を感じさせないからだと思う。

音に意図があるとき、人はうるささを感じるのではないだろうか。

 

しょうもないインプロを見ると、この「うるささ」にうんざりする。

「面白いことしてやろう」「驚かせてやろう」

「アンサンブルを引っ張ってやろう」「受けてるかな」などなど、

いろんな思惑があふれているからだ。

(ちなみに、顔芸、コントのような「何とかノイズ」みたいな連中は

この範囲にも入らない。論外だ。)

 


御三方の演奏にはほとんどそれを感じなかった。

「うるさく」ないのだ。

誰も何も説明しない。

ただただ演奏を続ける。

本当に素晴らしいライブでした。

 

会場は20人も入ればフルハウスになりそうなサイズで、

この日のお客さんは3人程度。

少し寂しいがゆっくり見れてよかった。

 

作意の説明に力を籠め、

それによって作品、本人に親近感を持ってもらえれば、

もっと人は集まってくるかもしれない。

「人気商売」「お金」「話題性」「集客」…

そんな視点に徹するなら、

そのやり方もアリなんだろう。


でもそれは本当に必要なのか。

それがあなたのやりたいことだったのか。

 

すくなくとも私には、

この日のライブは深く心に刻み込まれた。

ずっと忘れないであろう何かをいただいた。

 

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こうしていただいたいろんな刺激を胸に、

今週末は自分のライブです。



このライブ以降、また数カ月ライブがあきます。

この機会によろしくお願いいたします。





 

2022年7月11日月曜日

先週末、ライブを見て思ったこと

 

以前に少し書きましたが、

高校生の頃に音楽に目覚め、

ハードコアパンクに出会った。

 

具体的にはDISCHARGEWHYというアルバムとの出会い。

荒々しくやかましい音楽とまがまがしいアートワーク、

怒っているかのようなボーカルスタイルに圧倒され、

最初の印象は「怖い」だった。

だが、歌詞を読みながら何度も聴くうちに、

メッセージ、芯の強さゆえの怖さなんだと知った。

生々しいものは何だって怖さを伴うものだろう。

 

その後、いろんな「ハードコア」を聴いてきた。

「ハードコア」という言葉は音楽のジャンルを指すものではなく、

プログレッシブとかオルタナティブと同様、

考え方や姿勢を指すものだと思っている。

なので、それっぽい音であれば、だれもが俺はハードコアだ、

俺のやっている音楽はハードコアだ、ということができる、

なんとも便利な言葉でもある。

本物も偽物もハードコアと称し、称される。

 

今までいろんな音楽、バンドをやってきましたが、

自分から自分のやっている音楽をハードコアと形容したことは無い。

ハードコアへの憧憬ゆえに、恐れ多くて言えないのだ。

私の信じる「ハードコア」を自分がやれているとは思えない。

 

 

先週末、久々に九狼吽のライブを見てきた。

九狼吽の新曲群がすごい。

1曲オフィシャルでYOUTUBEにあがっている。



 

彼らは胸を張って自分たちはハードコアだと言う。

全く異論がない。

 

芯の通った彼らの姿勢、活動に頭が下がる。

と言っても、内面ばかりではない。

曲も演奏もライブの進め方もすべてが一流なのだ。

だからこそ姿勢にも重みが出るのだろう。

 

いや、それはきっと自然と両立されるものなのだと思う。

内面が徹底していれば、当然外面も徹底されてくる。

逆にいい加減にやっていれば、いい加減なステージになる。

そんな自称ハードコアはライブを見れば、中身が透けて見えてくる。

どんなにそれっぽく着飾って、力こぶを誇示していててもスカスカだ。

 

先述の通り、私のやっている(やってきた)音楽はハードコアではない。

でも「ハードコア」でありたいとは思い続けている。

自分を整え、自分で考え、自分で決める。

そうありたい。




 

2022年7月5日火曜日

GRIEF  "DISMAL"

 

愛聴盤紹介

8回目の今回は

GRIEF”DISMAL”です。

 


言わずと知れたスラッジコアの先駆者。

このアルバムは彼らの1stアルバムで発表は93年。

 

今でこそスラッジと言えば

誰もが音像を想像できますが、

このころはそういった音楽はまだまだ世の中に

ほとんど出てきていませんでした。

私にとっても、このアルバムが初めてのスラッジです。

 

とにかく重く、暗く、遅い。

いまどきのスラッジなどに比べると洗練はありませんし、

フルレンジな迫力あるミックス技術もない時代の作品で、

決して聴きやすくありません。

リズムも揺れ揺れです。

でも、だからこそバンドの息の合いが全面に見えてくる。

気持ちを込めての演奏が、鬼気として迫ってくる。

 

この1st以降、GRIEFは

徐々にハードロック化していきます。

重さ、迫力はそのままながら、曲はわかりやすくなっていきます。

 

それはそれでかっこいいのですが、

そうなっちゃうと個性が薄れてきてしまいます。

よそと同じ感じになっていっちゃう。

ちなみにこのハードロック化は

「スラッジバンドあるある」で多くのバンドがこの道を進み、

面白みを失っていく傾向があります。

 

ですが、この1stはちゃんとスラッジ “コア” です。

曲のルーツはあくまでもハードコア。

自分たちの描きたい世界、言葉にとって、

この音楽の形がベストなんだ、と胸を張っている感じがすごく好き。

 

中ジャケのメンバー写真もなんともいなたくて最高です。



グレコ、アリアプロっぽいギター、ベースがいかす。

これ、どこで演奏してるんだろ。

大きなお世話ですが、もう少しいい写真は無かったんだろうか・・・

いや、格好や場所なんでどうでもいいんです。

 

そして、盤面印刷も最高です。

 


これ誰だろ。

意味不明で怖い・・・

音楽の怖さに不思議な味を付与するような謎の盤面です。

 


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さて、すでに何度も告知させていただいておりますが、

今月末、24日は国分寺でライブをやらせていただきます。

 


これ以降、いまのところライブ予定入っておりません。

この機会に是非どうぞ。

よろしくお願いします。




2022年7月1日金曜日

渋滞にはまると

 

以前、何かで読みましたが、

男性は渋滞にはまって動けないときに

漫然と過去の出来事、失敗などを考えることが多いそうだ。

 

ブルーハーツの歌詞で、

「あの時ああすればもっと、今より幸せだったのか」というものがあるが、

渋滞中にはそんなことを考えてしまうらしい。

 

女性はこういったことを考えないということもないだろうが、

妻と会話していても、どうも私の方が、

過去のことをうだうだ考える傾向が強いように思う。

 

改めて考えるに、

あの時ああしていたから、今より幸せであることなど無い。

今は今で幸せで、それを比較できるものではない。

 

人はついつい他人と自分を比較してしまう。

きっとこれは社会生活を送る動物たる人間としての、

本能の一つなのだろう。

過去について思いを馳せるというのは

他人ではなく、自分を対象とした比較と言える。

 

我々はこの「比較」を明確にするためのツールとして

数字という概念を持っている。

何事も数字に置き換えるシステムが存在し、

それにより比較を具体的かつ他者と共有できるようになっている。

お金、人(人数)や、SNS以降は「いいね」の数など。

 

だが、本当はそんな数字で比較することなどできない。

幸せとはそんな一定のルールで測れるものではない。

数字での比較をする時点で

自分なりの価値判断を捨てている傾向にある。

そうではなくて、自分なりの価値判断を持っていることが「幸せ」なんだと思う。

 

自分なりの価値判断は以前にも書いた「経験」の中で醸成されていくものだろう。

 

ただただ生き続けていくことだ。

何も気に病む必要なんてない。

 

まぁ、そう言いつつも渋滞にはまると

過去のことを考えてしまうんですけどね。

 

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さて、7月になり、次回ライブまで1カ月を切りました。

 




最近はだんだんとライブ告知などを聞く機会が増え、うれしい限りです。

私も今月はいくつかライブを見に行く予定です。

コロナ以降、会っていなかった音楽仲間と会えるのも本当にうれしいし、楽しいものです。

 

24日は国分寺でお会いしましょう。