2022年5月18日水曜日

3発目の

 

以前にも何度かこのブログで引用させていただいてますが、

森有正さんという哲学者のお考えが好きでよく読む。

 

氏の考え方の中で特徴的なものといいますと、

「経験」に関するものかと思います。

 

「経験」とは「体験」と違い、

日々生きていく中で個々の中に無意識に樹立されていくものであり、

それが個々の考え方、言葉、生き方を作っていく。

 

我々は「経験」というと何かを「体験」することと考えている。

例えば食べたことのないものを食べるとか、

行ったことのないところに行くとか。

「初経験」とかいうが、それらの大半は「初体験」である。


経験とはそういうものではなく、

木は日々見る中では全く成長していないように見えても、

数年たってみると巨木になっているように、

変化はないように見えても変貌していくこと、

これこそが経験であるという考えだ。

 

言葉の意味も「経験」によって個々の中で変貌していく。

例えば、「愛」という言葉の意味は何だろう。

人によって、家族、恋人、ペット、などなど

いろんな形で「愛」とは何かを考えるだろう。

でも、その中に共通する何かは明確に説明できない。


言葉にして説明することができないとしても

それは「経験」によって積み上がっていき、

それぞれに中に「愛」という言葉の意味が樹立していく。


そしてその言葉を他者と共有する中で、

それはさらなる意味を持ち、言葉として強化されていくのだ。

(この辺、私なりの森有正解釈も含んでしまっています・・・)

 

「思想は、思想から出発しては全然ダメなのです。

問題はその素材である言葉の扱い方を学ぶだけなのです。

その素材が組織された姿がある一つの思想を定義するのを

辛抱強く待つほかないのです。」 

 

きっと年齢を重ねることの意味もここにあるのではなかろうか。

子供のころ、年寄りの話をよく聞くようにと言われたものですが、

それは年寄りの持つ知識を吸収せよ、という意味ばかりではなく、

どのように「思想」「生き方」が構築されていくのかを感じ取れ、

という目的もあったのではなかろうか。

 

生活の中で「経験」は積まれていき、

思想、生き方、ひいては「自分」はまとまっていく。

だが、その生活次第でその出来上がりには

違いが出てくるのではなかろうか。

その為の指針となるものが

道徳であり、文化であり、国家であるのかもしれない。

 

そしてその捉え方も個々の「経験」によって変わっていく。

文化、道徳、国家といったものも同様に

時間の中で巨木として構築され、更新されていく

なにもかもが互いの「経験」が絡み合う中で変貌していくのだ。

 

 

震災以降、「日本」について考えることが多くなった。

森さんの文章を読んでいてもまた考える。

 

「木々は光を浴びて」という文章を、

森さんは、日本に住むフランス人女性との会話の引用で終えています。

 

会話の中で東京での生活についての話になり、

その中で何がきっかけか覚えていないものの、

彼女がふと「3発目の原爆はまた日本に落ちると思います」という。

 

彼女には差別的な考えも偏見もない。

何のてらいもない、この突発的な発言に森さんは言葉を失う。

潜在的に彼女が感じていた、「経験」への日本の軽視が

こういった発言につながっているのではなかろうか。

 

「木々は光を浴びて」は1970年の文章です。

それから50年。

日本はどんな巨木になれたのだろうか。




 

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