すごく久しぶりの記事になります。
リハビリというのでもありませんが、
雑想的に最近思っていることなど。
取り留めありませんがご容赦を。
最近、WEB配信で映画を見る便利さを知り、いくつか見ている中で、
「ミッションインポッシブル フォールアウト」を見た。
なんだかんだでシリーズ全作を見ているが、
今作もハラハラドキドキの痛快作。
時間を短く感じる映画だった。
作中、逃げる敵を追う主人公イーサンを
仲間が無線で誘導するシーンがある。
敵、イーサンともに発信機を持っており、
仲間は二人の位置座標を見つつ、
遠隔地から指示を与える。
イーサンは無茶な指示に従い、屋根、建物を駆け抜け、
高所のビル間を飛び越えさせられたり、
大変な思いをしながら追跡を続ける。
ふと、2Dで位置情報を見ていたことに気づく。
2Dゆえにイーサンのいる高さに気づけず、
無茶苦茶な指示をしてしまっていたのだ。
よく言われることだが、
女性は道を覚えることが苦手だという。
これは上記の例のように三次元的にとらえるべきものを
二次元的にとらえていることによるという。
それゆえに目印となるべきものの設定が苦手なのだそうだ。
対して、男性は情報整理や論理的思考が得意な(人が多い)ので
道を覚えるのに有利なのだろう。
男女で物事の捉え方、傾向に違いがある例かと思う。
また、過去に書いていたブログでも引かせていただいた話だが、
中沢新一さんの「対称性人類学」に興味深い話が挙げられている。
困難な冒険を経て幻覚サボテンを味わうことで、新たな世界に触れるという
ウイチョル族のイニシエーション儀式「ペヨーテ狩り」。
これは男性だけが対象となる、
一人前の大人である証明ともなる儀式だ。
なぜ女性は儀式を受けないないのかという質問に、
ウイチョル族の女性は
「男性はあんなことをしないと知恵に近づくことができない。
女は自然のままにそれを知っている」と言う。
それはきっと言葉に表せないものかもしれない。
道を覚えることは苦手でも、
女性は男性に気づけない、たくさんのことを知っている。
人間世界の半分は自分と違う生き物(異性)であり、
それが生きることを難しくしている、なんてことを読んだことがある。
女性が苦手な自分としては簡単にうなずきたくもなるが、
この考えは変えたほうがいい。
それは難しさではなく、奥深さであり、多様性だ。
性別が異なるだけで、世界は別の一面を見せてくれる。
世界はそんな「可能性」にあふれている。
男女の別だけでなく、
感覚の違いも世界の捉え方に変化を与える。
佐々木俊尚さんの「時間とテクノロジー」という本の中で
面白い例が挙げられていた。
盲人と○○山という地名の町を歩いたとき。
盲人は微妙な地形の高低差を察知し、
その高低差が地名の由来であろうことを指摘する。
○○山なんて言う地名はそこら中にあり、
それが「山」に由来していることがわからないような場面も多々ある。
だが、盲人は体の感覚をもとに、
もともと「山」であるという事実に気づけるのだ。
我々は情報のノイズに囲まれて生きている。
それにより、本質がどこなのかが分からなくなる場面がある。
ノイズを振り払うのは難しいが、
自分の感覚が変われば、この例のように
靄が晴れ、世界は別の表情も見せるのではないだろうか。
コロナ以降、ライブは無くなり、
バンドで集まることもなくなった。
一人きりで音楽をやっている。
その中でふと気づいた。
意外なほど、一人きりの音楽に満足感があるのだ。
もちろん誰かに聴いてもらいたいし、見ていただきたい思いもある。
ライブの高揚感、バンドの一体感が恋しくなることもある。
でも、それよりも先に
演奏、作曲が楽しくて仕方ない。
自分は音楽をやること、音楽を作ることが好きだったのだと
改めて知った。
逆に言うと、コロナ前の自分は音楽活動に付随するノイズに
踊らされていた部分が多々あったように思う。
コロナ環境によって視点、感覚が変わり、
重要なことを再発見した。
世界は広くて深い。
男女でも、感覚の差異でも見え方が変わる。
月並みな言葉だが、
自分が変われば、いくらでも新しい側面に出合えるのだ。
コロナ禍でそんなことを再発見した。
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