先週末は以前から告知していた
地元飯能の竹寺にてライブでした。
お寺deマルシェというイベントで、
いろいろな雑貨販売、マッサージ施術、キッチンカー、占いなどが
境内、お堂の中に並ぶ。
そんなイベントに妻とともに「にじいろのめ」という名義で出店。
店では妻のグッズを販売し、
私も店番に立つとともに、
午前、午後の2回、お堂にて演奏をさせていただきました。
その場には妻以外に私の音楽を知っている人はいません。
普段音楽を聴かない人もたくさんいるであろう環境。
しかも、あいにくの雨にて音楽を五月蠅く感じても
外に逃げることもできない。
過去には路上演奏などにも挑戦してきました。
路上でも私を知る人はいない中での演奏になりますが、
聞きたくない人は離れて行けばいいだけなのに比べ、
今回はそうもいかない。
そんな中での演奏というのはなかなかにやりにくいのですが、
それを承知の上であえて臨んだ面もあります。
自分がどこまでできるのか、どんな演奏ができるのか、
どんなことを思うのか。
試してみた次第です。
過去には、自分たちが浮いてしまう環境でのライブを
「アウェイ」だのなんだの言ってたものですが、
そもそも音楽はアウェイから聴こえてくるものかもしれません。
知っている人、仲間、友達を集めての演奏は楽しいですが、
そこにはある種の甘えも出てきてしまう。
そんな甘えを排除してみたい思いもありました。
(これは批判とかではありません。
そういったライブの楽しさ、意義は十分に知っています。)
さて、そんなライブですが、
曲が進むにつれて、少しは演奏に耳を向けてくれる方もいてくれたり、
好意的な言葉もいただいたりと、ありがたい反応をいただけました。
うれしい。ほんとにうれしいです。
でも、何となく「うれしい」だけで気持ちが完結できず、
演奏を終えて思ったのは、
なんで人は音楽をやるのかな、なんで人前で演奏するのかな、
っていうちょっと大げさな話。
他者に披露する理由は、
ほめられたいから、感動してほしいから、わーわー言われたいから、
場合によっては金のためなんていうのもあるでしょう。
いろいろな目的があり得るのですが、どれもしっくりこない。
たしか「ブラス」という映画だったと思いますが、
「なんで人はどんなに貧しくても音楽をやるのだろう」
といったセリフがあったかと思う。
「なんで人は音楽をやるのか。」
きっとこの疑問は誰もが持つものなのだろう。
「なんで腹が減るんだろう」と同じように
プリミティブで本能的なものなのかもしれない。
人間は何かを表現しながら生きている。
私はたまたま音楽に魅せられて、音楽を作っている。
音楽を通して自分の触れた世界を表現したい。
その表現を他者に問いたいのかもしれない。
作ったものを、製作に伴った感動を。
そういう意味ではアウェイから聴こえる音楽で十分だ。
説明はしない。同調も求めない。
私の表現は音楽であり、
説明でも同調でもない。
ただ、アウェイから聴こえてきて、
すこしでも心に響いてくれたら最高だ。
そのために曲を、演奏をどうやって磨くのか、
それがずっと課題です。きっと死ぬまで続く。
さて、この3月末にて、
埼玉県飯能市に移住してきて1年になります。
移住してきた当初から思っていたキーワードに
「ローカルな活動」というものがあります。
街場に出て行って活動するのではなく、
地元から発信するような活動ができないものか。
この思いは移住の前から持っていたものでして、
ここ数年のDAYBREAKとの共鳴も
こういった部分にも起因しているように思います。
(彼らはローカル活動の第一人者ですので。)
移住後、1年でとりあえず地元での演奏にこぎつけたのは
自分としてはすごく達成感があります。
これからも地元活動を続けていきます。
あ、もちろん街場にも出ていきますので、
ライブのお誘いお待ちしています。
先日、久しぶりに小林秀雄の「モオツァルト」を読んだ。
何度読んでもガツンとくる言葉があります。
「大切なのは目的地ではない。現に歩いているその歩き方だ。」
これからもじっくりと歩き続けていきます。
弓、結構いいかんじです。
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